子安神社

南房総市和田町海発716 (令和5年9月24日)

東経139度58分38.65秒、北緯35度00分48.13秒に鎮座。

【神社情報・「狛犬小僧」さんより】
内房線南三原駅前から国道128号線を西に440m進んだら、エネオスと神社社号碑の間の道に入り70m進んだら右折し、道なりに200m進むと一の鳥居が見えます。昔は神社の称号が海発神社(かいほつじんじゃ)と呼ばれていた神社。色々と石碑など多い神社です。

御祭神 豊玉姫命・大山祇命・飯縄大神

由緒
「南三原村々社海発神社は、昔から子安大明神(こやすだいみょうじん)と称した元海発村の守護神である。その社殿の創建は明らかではないが、遠く承久(1219年〜1222年)の時代には、すでに村人たちが崇(あが)め敬(うやま)っていたのである。昔からの伝説であるが、ある時、村里の幼童(ようどう)たちが海発神社の御神体を運び出し、付近の河水(かすい)に流して楽しげに遊んでいるのを見た村人が、驚いて急ぎ御神体を社殿に安置し、固く鍵を掛けると、その夜、御神体が村人の夢枕(ゆめまくら)に立ち、『吾(われ)、幼童と共に河(かわ)の流れに戯(たわむ)れるは幼童の溺死(できし)を護らん為なり、汝(なんじ)は吾(われ)を封じ込め、吾(わ)が意に逆らうなり』とお告げになったのである。その村人は恐れおののき再び御神体を開帳(かいちょう)せしという。まさしく海発神社祭神は幼童愛護の神である」。
(以上 南房総市 海発神社縁起より抜粋)

承久2年9月創建。郷人の信仰により子安大明神として創立し、明治6年3月4日海発神社と改称す。元文元年7月23日奥山権蔵地頭のとき神田2畝13歩を寄進、免田とす。明治44年10月29日字取田原の山神社及び飯綱社を本社に合祀す。大正4年11月神饌幣帛料供進指定社となる。昭和41年11月24日再び子安神社と改称す。
(以上 神社の広場 神社探検隊より抜粋)

社号碑と社号碑の隣の由緒書。

国道128号線沿いの入口右側にある社号碑。書は大蔵大臣水田三喜男 により海発神社から子安神社への名称復元記念として、昭和41年に建立された。

内側から見た一の鳥居。

神社入口

右石灯篭 文化十四年(1817)
丁丑九月の右石灯篭
文政五年(1822)
午九月の左石灯篭

似た石灯篭が二つあるが、時代は微妙に異なる。鳥居は大正十一年六月の竣工。館山市立博物館の調査では江戸材木町の石工和泉屋与市の作。同じ石工が2度に分けて作った常夜灯である。

狛犬。石工は館山市立博物館の調査によると小川の川上丑松。小川はここから4km程北東の地域。

参道左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(明治23年(1890)庚寅6月15日建立)

社殿改築寄付碑 石垣寄付碑 天獅子寄付碑

天獅子と書いてあるが狛犬の寄付碑。一番左に明治廿三年六月十五日建立と彫られている。館山市立博物館の調査では村内の健福寺・自性院や9件の地 引綱元など150名の寄付者がいるそうだ。

震災社殿復興補助金碑。右が大正十五年七月三日の千葉県からの震災社殿復興補助金碑で、左は大正十三年九月十日の秋田と福島からの震災社殿復興寄付金碑。他県からの復興寄付金の方が早く支給されたとは驚きだ。

手水舎

鉄菅製の三の鳥居。接合部はボルト締め。

神額

御神木

御神木

大正三年五月に改築された拝殿。

昭和7年に伊勢参宮記念として奉納された天水桶と雨蛙付き力士。

向拝

龍と左右の木鼻。向拝の龍・獅子・象・松に雉子は初代後藤義光の作。江戸で修行中の天保年間(1830)二十四、五歳頃の作品と思われる。

彫刻案内貼り紙

子授かり石

本殿覆屋


石祠