神野(じんや)

君津市鹿野山324-1 (平成25年5月9日)

東経139度57分59.11秒、北緯35度15分5.4秒に鎮座。

【神社情報・「狛犬小僧」さんより】
お寺ですが、居ないと思っていた狛犬さんが鎮座していましたので報告致します。狛犬の居るところは、やはり成田山新勝寺と同じですね。以前は動物園も併設されていて虎も居ましたが、現在は閉鎖され狛犬さんの天下です。

1979年(昭和54年)当時寺の境内に動物園を併設しており、そこで飼育されていたトラが2頭逃げた事件で一躍有名になった。結局、トラは射殺され、忌野清志郎によって追悼コンサートが開催された。
ウィキペディア より

縁起
推古天皇6年(598)聖徳太子の開山により始まりました。現在の地名ともなっている鹿野山は、当山の山号であり、太子が当寺を建立する際、野生の鹿が沢山集まった事からインドのお釈迦様の初転法輪の地(鹿野苑)にちなみ、山名を名付け「鹿野山」名称の発祥の寺院であります。現在では、熊野峰(鹿野山神野寺)・白鳥峰(白鳥神社)・春日峰(春日神社)の三峰を総称して鹿野山といわれており、ご祈祷お祓い・お参り)の霊山です。天安元年(857)には、慈覚大師が再興しています。平安時代から鎌倉時代にかけては天台の道場として栄えました。永正年間(1504)には高野山から弘範上人が来山して、真言密教の法灯を立てました。弘範上人は、真里谷城主(木更津市真里谷)真里谷信勝の協力を得て荒廃していた神野寺を復興しています。さらに、天文年間(1532〜1555)には里見義尭が神野寺を帰依し再興をはかっています。天正18年(1590)徳川家康が関東を領有すると、同年7月に神野寺に朱印の禁制を与えました。それによると、軍勢などが神野寺に対して乱暴することや放火などを厳禁しています。天正19年(1591)に家康は寺領並びに格式十万石の大名格を寄進しています。また、この年家康は家臣である佐貫城主内藤家長(富津市佐貫)に伽藍や僧坊を造営させました。元和7年(1621)12月坊中から出火して堂宇を焼失しました。その後、第7世源瑜が中興し新義真言宗の法灯を伝えました。また、第14世利珊も堂宇や僧坊の復興を計画し、宝永5年(1708)に再建に成功しました。この時、松平勝隆は用材を寄進して利珊に協力しました。現在の本堂はこの時建設されたものであります。大正6年(1917)9月30日台風の襲来によって、樹齢数百年を数える杉の巨木数十株が倒れたほか、仁王門・表門・その他の建造物が倒壊しました。その後、数年にわたって境内の杉などの樹木が次々に伐採され神野寺の杉林は見る影を失ってしまいました。その後、第30世楠純隆が再建や修繕に力をつくし、ようやく昔のような神野寺の景観を取り戻しました。現在は真言宗智山派(総本山が智積院、大本山が成田山新勝寺・川崎大師平間寺・高尾山薬王院)に属し、境内地(約40,000坪、東京ドーム約3個分)には仁王門・本堂・経堂・六角堂・鐘楼堂・五重の石塔・天満宮・奥の院・表門・宝物殿・太子講堂・道場・宿坊・庫裏などが点在しています。
(以上 神野寺ホームページ より)

参道

有徳院殿 尊前 寛延4年(1751)辛未6月20日建立 日向 高鍋城主 佐渡守 秋月種信
有徳院とは院号だが、九州の高鍋藩が何でこの地の寺とつながりがあったのでしょうか。

イチョウの聖木

仁王門のわらじ

仁王門出口

この時代にしては保存状態も良好な江戸尾立。拡大写真はこちら。
(寛保元年(1741)辛酉9月3?日建立)

本堂

大正時代らしくない!。モデルとなった先代が居たのでしょうか。拡大写真はこちら。
(大正11年(1922)10月吉日建立)

弁財天

奥の院

烏天狗の下駄

尻尾が高く流れています。かなりユニーク。拡大写真はこちら。
(年代不明)

奥の院の更に一段高い所に鎮座する霊神塔。