愛宕神社

君津市愛宕280 (平成22年4月10日)

東経140度03分20.87秒、北緯35度17分30.54秒に鎮座。

【神社情報・「狛犬小僧」さんより】
久留里駅から93号線を約2.2km先の上総自動車教習所手前まで進み右折、そのまま400m程進めば鳥居の立っている交差点に着くのでそのまま直進。左に県立君津青葉高校愛宕キャンパスを見送り山道を歩くこと20分程で神社に到着します。山道は途中別れたり合流したりを繰り返しますが、ほぼ真っ直ぐなので間違えることは無いと思います。

愛宕神社のある愛宕山(192m)は地元では幼稚園での遠足で登られているような山で、親しまれている山です。参道にはアカガシ、スダジイなどの自然林が多く鬱蒼としていますが、実はこの山、東側(参道側)と北西側が大違いな山なのです。グーグルマップの航空写真を見ますと、東側は緑で覆われていますが、北西側は神社の近くまで砂利採取場になっていて大きく抉られてハゲ山になっています。恐らくこの神社が無かったら、もっと砂利採取場は広範囲に拡がっていたかも知れませんね。写真を見ている内に何だかこの神社がこの山を守る、最後の砦のような役目をしている様にも思えてきました。

御祭神 軻遇突智命・埴山比売命・水波能売命
由緒
愛宕神社の創建は社伝によれば坂上田村麻呂によって創建せられた京都・愛宕神社を天永二年にこの地に勧請したと伝えられる。即ち約九百年前、軻遇突智命を主神として埴山比売命、水波能売命を祭られ明治期まで愛宕大権現と称した。これらの神は雷神、火の神、縁結び、安産、更に雨乞いの神として尊崇せられる。社殿脇に摂社・軍神の勝軍地蔵あり。
中世戦国時代、里見当主にして久留里城主、里見義尭公は北条氏康と永禄年間(一五六○年前後)に合戦を繰り返した。ある夜、夢枕に「吾は乾に当たる場の者なり」と告げられ戦略を授けられる。それ以後の戦いにさしもの北条勢も打ち払われた。これは霊神の賜なりと、城の乾の方向の当地山中に登って草木の間を尋ねると、小堂と神像が見っかった。即ち夢に逢う所の霊神なりと直ちに当地山頂に社殿を造営し、愛宕大権現と崇め、三百石を寄進された。下って土屋民部少輔殿のご治世に至り、拾四石六斗七升を賜り、別当職は泉蔵院として、祭祀が行われた。宝永十二年(一七一五)柱に瑞鳳霊獣を刻み、屋根は銅葺き瓦の改築の改修が行われた。
天保六年(一八三五)にも黒田候の許可を受け神社修理された。明治維新の時、境内地外の社寺は召し上げられて官有地となり、泉蔵院は廃止された。この時より氏子により僅かに祭式を執行するも悲境に遭遇する。更に明治二十二年八月十四日火災の追い討ちにあい、壮麗を極めた社殿烏有となった。しかし氏子一同協力辛苦して、明治二十八年十一月再建した。が大正十一年、大風のため随神門倒毀、大正十二年九月一日本殿倒破したので、泉蔵院第十五代で氏子総代の愛木政丸氏及び氏子の人々の協力尽力により、神楽殿として立て替え、本殿は同坪数で再建した。ただし本殿の瓦は太平洋戦争時に貴金属(銅)として供出され、回復されたのは昭和五十三年であった。神楽殿は失われている。平成十五年鳥居再建の機に当神社の縁起を記し、ここに後世への記録と為す次第である。
(以上 愛宕神社縁起による) 原文はこちら。

管理人の一言。
里見義尭公が夢枕で戦略を授けられるのも、当然かも知れません。愛宕権現の本地仏は勝軍地蔵。これに念ずれば、必ず戦いに勝つ。と言われております。しかし、この地の勝軍地蔵は廃仏毀釈で打ち壊されると言うことは無かったようです。

神社入り口

神額と注連縄

登山道のような参道と最後の階段。石の階段はかなり傷んでいました。実際崩れて階段になって無い部分も多いのです。

狛犬と拝殿

素朴な江戸流れですが、残念なことに阿は真っ二つに割れています。拡大写真はこちら。

狛犬小僧さんは「天保当たりでしょうか?」と言っております。石はさほど硬そうには見えないので、あるいはもう少し新しいかも知れません。

拝殿

向拝下の彫刻

昭和53年に回復した銅製屋根の本殿

本殿右壁

本殿左壁


勝軍地蔵

手水石に手水桶

石製手水桶 石灯篭

御神木