遠見岬神社

勝浦市浜勝浦11 (平成22年3月11日)

東経140度19分7.7秒、北緯35度8分36.5秒に鎮座。

【神社情報・1948さんより】
勝浦のひな祭りの時訪れましたが参道の階段が通れず再度訪れました。JR勝浦駅から徒歩10分程の所に入り口があります。参道を登りますと社務所、賽銭箱が入り口に在るのが納得できます。初めての人はともかく地元の人は毎回登るの大変でしょう。

御祭神 天冨命(あめのとみのみこと)

社伝によると、御祭神天冨命は、神武天皇の勅命を奉じ阿波(現在の徳島県)の開拓を終えた後、東国により良い土地を求め阿波に住む忌部一族を率いて海路を黒潮に乗り、紀伊を経て房総半島南端の布良の浜に上陸され、祖神である天太玉命を祀る社を建て、麻や穀(かじ)を植え開拓を進められました。そして、麻がよく育ったところを総の国(後の上総・下総)穀の木がよく育ったところを結城郡(現在の茨城県結城市)と名付け、阿波忌部の住んだ所は後に、安房国と呼ばれました。
安房の開拓を終えた天冨命は、その後当地においでになり遠見岬(現在の八幡岬突端)に住まわれ、先住民に農業・漁業・建築等の技術を教えました。天冨命がお隠れになった後、天日鷲命の後裔、勝占の忌部須須立命が天冨命の居跡に社を建て、開拓の祖神として御神霊をお祀りしたのが当社の始まりと伝えられております。また、勝占の忌部が住んだこの地は後に勝占(現在の勝浦)と呼ばれました。
時代は下り、慶長6年(1601年)大海嘯により社殿は決壊し社宝の多くを流失してしまいます。御神体と決壊した御社殿は尊磯の浜に流れ着き、一時宮谷に祀られ、萬治2年(1659年)当時の勝浦城主植村土佐守泰忠公により現在の地に遷座されました。尚、現在の社殿は嘉永2年(1849年)の造営です。旧社地はその後、元禄16年(1703年)の大地震により海没し、現在は一部が島として残されているのみです。
勝浦は漁業の発展と共に、江戸時代には「勝浦三町江戸勝り」と例えられたほど繁栄し、当社は近郊の領主はもとより漁業関係者を始め、全国より多くの崇敬を集めました。御祭神天冨命は、開拓の指導者としての幅広い御神徳をもち、また東京より巽の吉方(東南)に鎮まる神社として、今もなお多くの信仰を集めております。
千葉県神社庁公式サイトより。

海嘯(かいしょう)は河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象である。潮津波(しおつなみ)とも呼ばれる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

海嘯とはアマゾンのポロロッカ現象等を指すようです。しかし、ここは河口では無いし、湾の奥と云うことも無いので、慶長6年の大海嘯とは津波のことでしょうか。

1948さんが勝浦のひな祭りで参拝不可能だった、かつうらビッグひな祭り」はこちら。

参道入り口の社号標。右手は京葉銀行勝浦支店。奥に一と二の鳥居が見えます。

一の鳥居を潜ると右手が社務所。石段途中に二の鳥居。多くの人はここで参拝を済ますのでしょうか。

参道途中の境内社

左:不明。右:金刀比羅神(大物主神)。 福徳稲荷(豊受大神)

参道途中

参道からの展望

参道最後の三の鳥居

拝殿と狛犬

昭和三年のお生まれだそうですが、色合い、風格、出来映え、等々、知的なお顔の素晴らしい狛犬です。拡大写真はこちら。

(昭和3年(1928)9月建立)

神額と櫓

本殿

手水舎

神社の南西1km程の海中に浮かぶ鳥居(八幡岬公園より)

平成24年夏勝浦花火大会を海上より見学する機会があり、暗くなるまで鯵釣をした時撮影。左手が八幡岬。