鶴舞神社

市原市鶴舞624 (平成21年7月20日)

東経140度11分12.63秒、北緯35度22分43.27秒に鎮座。

【神社情報・「狛犬小僧」さんより】
鶴舞小学校近くの雑貨屋に立ち寄った際、壁に鶴舞神社のお祭りのポスターが張ってあるのに気が付き、雑貨屋の主人に聞いてみたら神社は近くにあるとのことなので、行ってみた次第です。残念ながら当日はお祭り日ではありませんでした。この神社と公民館の間には、日本点字の父といわれている石川倉次の胸像があります。
石川倉次は1859年に浜松に生まれ、1868年鶴舞に移り、1890年にルイ・ブライユが考案した12点式点字を6点式点字で日本語表記したそうです。

神社入り口

二の鳥居と狛犬

岡崎形狛犬

(平成16年(2004)1月吉日建立)

拝殿

神額

拝殿前の狐。台座に慶応3年(1867)丁卯11月吉日の文字が見えますが、勿論先代さんのものでこれは昭和と思われます。是非修理して残して欲しいと思います。

脇にやられた先代さん達。狐は仲睦まじそうで、この方が良かったのでしょうか。狛犬も江戸流れでなかなか良さそうに見えます。

手水鉢

石川倉次像

石川 倉次(いしかわ くらじ、1859年2月28日(安政6年1月26日) - 1944年(昭和19年)12月23日)は、日本の教諭。静岡県浜松市中区鹿谷町で生まれる。父は、浜松藩士。
1868年藩主の国替えにより、千葉県市原市の鶴舞に移る。1879年、千葉師範学校を卒業後、千葉県内の小学校の教師となる。このころより国語やカナ文字の指導に関心を持ち研究会にも出入りし、そこで知り合った訓盲唖院の小西信八に誘われて、1886年、1886年訓盲院(後に東京盲唖学校)教師となる。
1890年ルイ・ブライユが考案した6点式点字で日本語を表記する事に成功(12点式を6点式に変えた)。これが正式に採用されたのが、1890年11月1日のことで、以来この日が、「点字の日」と定められている。石川は「点字器」、「点字ライター」も開発し、日本点字の父といわれている。
1910年東京盲唖学校が、東京盲学校と東京聾唖学校に分離した際、東京聾唖学校へ異動。
日本における盲教育における一大人物であり、聾唖学校への転出は非常に惜しまれたが、「盲教育に比べて聾唖教育は、若い教育者には難しい」という理由で盲教育の場を去った。1944年、戦争で群馬に疎開中、85歳で逝去した。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

御神木に石碑

鶴舞藩庁跡

鶴舞藩は明治元年(1868)徳川家達の駿府移封に伴い遠州浜松藩六万石の譜代大名井上河内守正直の上総転封により成立しました。
井上氏は四代正岑より六万石と江戸城雁之間詰の家柄となり初代正就から十代正直まで転封を繰り返しながら幕府の要職を歴任し、正直自身二度も老中に抜擢されています。
正直は、明治二年二月十一日はじめて藩領浅南宿に到着し、今関家を仮本営、浄徳寺を仮庁舎とし、三月十二日ひは城地を求め、原野桐木原の開墾に着手、翌三年四月に藩庁知事邸が完成し藩名「鶴舞藩」が確定します。
この間明治二年六月の版籍奉還、また明治四年七月廃藩置県が行われ長南での大名時代は五ヶ月、鶴舞での藩知事時代は十五ヶ月でした。
市原市教育委員会