安房神社

船橋市小野田町610 (平成23年11月21日)

東経140度5分18.28秒、北緯35度46分44.34秒に鎮座。

【神社情報・来戸さんより】
北総線「小室」駅より徒歩20分程の所に鎮座しています。小野田の鎮守。当神社境内は小野田城 (戦国期、城主は不明)の主郭があったと云われる。現在も神社の境内西側、南側に土塁があります。角頼氏は原氏 (はらし・千葉氏族)の家臣団となった臼井衆の一門であったとされる。本殿脇障子には竹が彫られています。その背後に竹林が見えます。

御祭神 安房主大明神
御由緒
光明寺と門前の道路を隔てて小丘上に此の地の鎮守安房主神社がある。この神社は元来、此の地の旧家角頼太郎左衛門なるものが、その生地小池村より此処に移り来り、氏神として奉祀したのが始めで、以来角頼氏は是を崇敬して自ら神主となって居つたが、正徳年中神社も社地も併せて光明寺に寄附し、以来光明寺が別当職を勤めて来たのだという。しかし明治初年神仏分離の際、今の様に寺との関係を離れた。千葉郡誌及び豊富中学校所蔵豊富村沿革史には此の神社を安房神社と呼んで居れど、実は安房主明神である。角頼家に伝わる享保四己亥天五月吉日という日附のある法華宗御題目の曼陀羅に、明かに安房主大明神と記してある。また神社の扁額にも安房主大明神とある。安房主大明神というは、安房の須大明神ともしるす。葛飾記及び葛飾誌略によれば、今の市川市高石神の辺にも同じ名の神があつたという。天太王命を祀る安房神社とは著しく違って居つた様である。今は此の神社の社殿は小さけれど頗る立派である。
因にいう。角頼家所蔵曼陀羅には「鎮守安房大明神大曼荼羅也」とも記してあれど、これは主の一字を脱したのであろう。
この神社の傍、台地の東北端に近き畑地は小字城(じょう)という。或は古き砦などの遺跡かともいえど、其の証跡も無ければ、それらしき遺跡も見当らない。なお光明寺の背後より萩堂の背後にかけて一連の長き土手がある。蓋し、昔、小字台の人家を守った猪除げに風よげを兼ねた土手であろうか。それとも外に何かの用に供したものか詳しきことは分らない。台の人家はこの土手内、あまり広くもないところに立てこんで居る。思うに此処は台地ではあるけれど、土手外にくらぶれば一段低いところであるから井戸も余りに深くはなく、案外に早く此の人家は出来たのであろう。なおこの土手と部落との関係については若干研究の余地もあるであろう。
なおまた此の附近には少し離れて、城外という小字もあるという。城(じょう)と如何なる関係があったか分らない。
船橋市史 より

参道入り口と参道

参道階段

鳥居&拝殿

記念碑と御神木。背後は土塁。

参道の岡崎型狛犬
(昭和60年(1985)9月吉日建立)
先代手水鉢(奥)、明治の物 手水鉢

本殿

「安房主大明神」の神額

木鼻の狛犬と象
左右の小脇板
左右の脇障子
狛犬の彫刻
境内社とその内部

不明の末社

光明寺側の階段