銚子市新生町1-1 (平成22年4月18日)
東経140度50分18.50秒、北緯35度43分51.90秒に鎮座。
【神社情報・1948さんより】
銚子電鉄、観音駅より北西へ徒歩15分程の新生浜公園にあります。永照稲荷は利根川を背に鎮座し、その隣の水神宮は利根川に向かい鎮座しています。
永照稲荷大明神の由来
古来より新生一丁目一番地に鎮座ましました御稲荷(伏見稲荷系)は古文書の板書及び石柱の銘記に依りますと寛永十二年(三百三十年前)大分県豊後の佐伯氏が銚子浦利根川鳶島洲之御祀り致し後享保十九年三月(二百七十年前)寺井七郎右衛門氏が鳶島洲より新生一丁目一番地え社殿を造営し御移し奉り其の後寛政十二年十月(百十二年前)田中太平氏に依り御社殿の外郭を御造り申上げ朝な夕な海上平穏大漁祈願並に産業繁栄を御祈り申上げたと記録に残されて居ります。
其の後後継者山本興平氏の移転に伴い昭和四十六年六月当町内役員合議の結果現在地に御遷座修復し鳥居灯篭等を奉納し整備致し新生町内は勿論広く東総地区の守護神として御祀りする事となり御名を青木敬昌先生の命名の依り「永照稲荷大明神」とお称え申上げる事になりました。
境内由緒書より。原文はこちら。
全景
鳥居
社殿と狛犬
大きな角と宝珠を乗せた素朴な江戸流れ。拡大写真はこちら。
(年代不明)
水神宮全景
鳥居
水神宮の狛犬。ユニークで笑える狛犬です。拡大写真はこちら。
(昭和9年(1934)建立)
社殿
水神宮の文字と龍
台座の牛
公園内の濱口吉兵衛像
濱口吉兵衛<はまぐちきちべえ>
紀州広村(和歌山県有田郡広川町)に生まれる。名は茂之助。東京帝国大学在学中に欧米各国を回り営業の実情を視察する。1901年(明治34)、武総銀行を設立して取締役となり、翌年から3年間は第一生命保険相互会社の監査役も務めた。1904年(明治37)に、兄の濱口吉右衛門家から分家し、初代濱口吉兵衛を名乗った。1907年(明治40)、豊国銀行設立に参加して監査役になる他、東京護謨工業や第一相互貯蓄銀行の監査役などを歴任した。1913年(大正2)、銚子遊覧鉄道株式会社(銚子電気鉄道の前身)及び、銚子ガス株式会社の社長に就任。1914年(大正3)に家業を、田中玄蕃や深井吉兵衛とともに銚子醤油合資会社(ヒゲタ醤油の前身)として発展させた。4年後に株式会社化した時に初代社長となった。1920年(大正9)から衆議院議員(二期8年)となった後は、銚子港の修築を関係各方面に訴え続け、国庫補助による県営工事が実現した。
旧、とっておき、銚子散歩 Web版 18.銚港港、より
現在、銚子漁港は日本随一の漁獲量を誇る漁港となっているが、嘗ては日本の三大海難所の一つに数えられた所であった。利根川の河口付近に千人塚(銚子市川口町2丁目)というところがあり、1616年(慶長19年)10月25日銚子沖に吹いた突風によって亡くなった千人以上の漁民を葬った場所と言われている。昔の利根川河口付近は川幅が狭く、川底には大きな岩があり、その上水深が浅く、干潮時と満潮時の潮の流れは急で、一年中風が強く吹き波が荒い場所であった。明治43年3月12日には、漁船 80隻、漁民千人以上が遭難した。当時の船頭歌で「阿波の鳴門か銚子の川口、伊良子渡合が恐ろしや」などと諷されていた。何度も遭難が繰り返される中、銚子の町人や漁民らの間から河口を広げ水深を深くし、安心安全な漁港を造って欲しいという要望が上がり、銚子醤油株式会社(現・ヒゲタ醤油)社長の濱口吉兵衛を千葉県水産株式会社取締役社長に抜擢し、安全な港に修築できるように、県や国に訴えて貰う事にする。以後、県や国が調査し、川底の爆破をし水深を深くする事を試みるものの、返って流れが急になり、やむなく中止する。別の案では、救助砲(救助ロープを打ち出す砲台)を設置するものの、いざ使用してみると、船まで届かず全く意味を成さなかった。以後、吉兵衛は悩み、漁民を危険な状況から救う為、また、国へこの実情を訴える為に国会議員になる決意をする。その後、国会議員となった吉兵衛は、千葉県議会議員であった小野田周斎と共に銚子漁港改修に全力を注ぎ、銚子港修築案がついに国会を通過、国からの援助を得る事が決まった。1925年(大正14年)12月修築工事が始められ、1932年(昭和7年)11月竣工した。1937 年(昭和12年)吉兵衛の功績を讃え、新生河岸公園に銅像が建立されたが、1943年(昭和18年)、戦時供出された。しかし、1955年(昭和30年)銅像は再建された。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
公園横の銚子漁港