稲荷神社

千葉市中央区稲荷町2-8-13 (平成21年9月19日)

東経140度7分37.6秒、北緯35度35分10.2秒に鎮座。

【神社情報・「狛犬小僧」さんより】
寒川町の寒川神社前の道から南下することほぼ1kmで左側に鎮座しています。源頼朝が千葉を北上する際、この神社を通って千葉市中央区新宿の白幡神社へ向かったとも思われる神社です。

由来
往昔、日本武尊が東夷征伐のため上総國へ赴く際、当地に「御駒(馬)」を放ち、この地主神に夷賊退治の無事達成を祈り誓いを立てた事から、此の地は「駒ヶ原」と呼ばれた(駒原神社再建寄進帳・文政五年)御社は「駒原神社」として豊宇気大伸を祀った。
その後、大治元年(1126)、千葉常重が猪鼻に館を構えて以来、千葉氏の守護神として
「御達報 稲荷」と称した(千葉集) また治承四年(1180)、源頼朝が太刀一振を献上し祈願(神社由緒書き)以後社殿の修繕などは代々千葉氏が執り行う。
延宝年間(1673〜80)に旗本深尾八太夫が復興を図り、日蓮宗上行院を別当寺として当社境内に建立(明治維新後、廃寺)寛政七年(1795)、京都伏見稲荷大社より正一位五社稲荷大明神の神号を賜る。千葉氏没落後は氏子が相協力して造営修理に当たり、文政三年(1820)、社殿再建を開始した事や安政六年(1859)、拝殿を建立した事などが記録に見える。
御祭神は豊宇気比賣命(豊宇気大伸)久久能知命。毎年七月九日、御宝物を虫の儀を行う。
地名の変遷は御達報村から御達浦村、千葉寺村新田五反保、五反保村、五田保村。やがて明治二十二年千葉町大字千葉寺字五田保、昭和十一年より稲荷町に。
境内には当地の偉人、花沢紋十が天保七年(1837)、甘藷澱粉粉製造を始めた事などを記した「甘藷澱粉製造発祥之碑」がある。
(以上 神社案内板 稲荷神社の由来 地元学研究家 大川 義行  による)。原文はこちら。

■ 御祭神:豊宇氣比賣命・久々能知命
■ 御由緒
『千学集』によると、千葉常兼が大治元年丙午6月1日、御達報(地名)の稲荷大明神を千葉の守護神とする。栄福寺古文書によれば、神職粟飯原某に奉幣の儀を司らせ、社殿の営繕悉く千葉氏が行うとある。千葉氏没落以降は村民がこれを維持した。明治6年粟飯原大蔵神職を辞し、別当寺の冨流山上行院も維新後これを廃寺、現福正寺となる。寛政7年乙卯年に京都伏見稲荷大社より正1位5社稲荷大明神の神号を賜る。現拝殿は安政6年3月の建立。神社由緒書によれば源頼朝が治承4年大刀一振を献上祈願している。
千葉県神社庁公式サイトより。

平成24年1月7日、1948さん初詣に行かれたようで、狐さんの写真をお寄せ戴きました。後に追加してあります。

神社入り口。うっかりすると見落としがちな入り口です。

補強された鳥居

参道

入り口左右の狐さん

(平成2年(1990)9月吉日建立)

参道途中の昭和岡崎型狛犬

拝殿前の狐さん

台座は天保らしいのですが、狐はもっと新しそうに見えました。

屋根

向拝龍。正面を向いているのは珍しいかも知れません。

鳥の彫り物。鳳凰か?

木鼻

右脇障子

屋根上の狐さん。屋根の上は初めて見ました。

初めて来た時は見落としてしまった狐です。中々可愛い狐で今風なデザインですね。

本殿

末社とその内部

石碑群 引退された狐など
八紘一宇など 甘藷澱粉製造記念碑

御神燈

(天保10年(1839)己亥9月吉日建立)

手水石 天保十年製の手水石

総じて天保生まれの物が多いので、現在の形は天保に形成されたと思われます。

神社内風景


以下1948さんよりお送り戴いた写真です。

拝殿屋根のお狐様
本殿屋根のお狐様

拝殿狐の彫刻

本殿脇障子、右