柏正八幡宮

つがる市柏桑野木田 (平成21年7月20日)

東経140度24分31.31秒、北緯40度46分56.40秒に鎮座。

37号線を鶴田町よりつがる市へ入り北上して行くと右手に神社の案内板が目に入ってきます。案内に従って右折して、進んで行くと境内となります。地図を見ても周りは八幡となっており、この神社の門前町かと思われます。

御祭神 誉田別尊・少名彦名神・保食神
例祭日 七月十五日

由緒
天正五年三月旧藩主中興の祖津軽右京之太夫藤原朝臣為信公の公命によって金造の神像を御神体とし、広須八幡宮 (柏村広須) に建立する。国家安穏、五穀成就、萬民豊楽、武運長久の祈願をこめ直筆の棟札を奉納した。以来津軽藩主代々の祈願所とした。広須木造両組の新田の開発されたのを以て広須木造両組の鎮守の社として崇敬された。四代藩主信枚公が寛文八年六月に川端村 (柏村桑野木田) の現在地に移転した。明治二十二年柏村となり、明治四十二年に社名を、為信公の棟札に正八幡宮とあるに俗い柏正八幡宮に改名した。旧社格は郷社である。
 相殿保食神 (末社稲荷神社) 建立年月日不詳桑野木田廣大山浄円寺地守神として勧請享保三年再建。その後合祭され相殿神となる。
 相殿少名彦名神 (末社薬師宮) 寛文三年に勧請す。明治六年郷社配置の際に合祭されて相殿神となる。
青森県神社庁公式サイトより。

天正四年(1576)旧三月津軽平定の途上にある津軽為信公はある時鯵ヶ沢地方巡視の帰り妙堂崎の山手にさしかかったさい遥か東北の方に茫々と広がる芦原を望むと、無住の地と思わる彼方に一大老樹が天を覆うている。その傍より一条の炊煙が立ち上るを見つけ奇異の念をいだきその所を尋ねる事にした。ようやくたどりついて見ると一大老柏木の傍に葦芽の家が三軒並んであった。これは、工藤祐益、花巻頼母、山崎織部等落武者の庵で付近僅かに粟稗が耕されてあった。一行は暫くこの草庵に憩をとることにした。昼時ともなったので、村人達は心をこめて粟や稗の酒飯を炊いてもてなした。
為信公はことのほか上機嫌で祐益老の願いを聞くと産土神の御加護の下に開墾を進めたいとお宮の建立を上願した。そして為信公はしの四方遥か広漠たる葦原を眺めこの土地を広須野と名づけ帰城して行ったという。
翌天正5年(1577)旧三月公命によりて国家安泰万民豊楽五穀成就、新田開発成就の祈願の社として広須八幡宮が建立され祐益老の孫千之太夫が宮司となった。
寛文八年(1668)に川端村(桑野木田)に移転され広須木造両組の新田開発の総鎮守として代々藩主の祈願所とされる。
明治二十二年(1889)柏村となってから柏正八幡宮と改称し現在に至っている。
境内由緒書より。全文はこちら。

社殿の300m程東に立つ一の鳥居と社号標。左手は柏第一保育所。

参道

二の鳥居と三の鳥居

更に参道

四の鳥居と境内

御神馬

津軽にはユニークな狛犬が豊富です。拡大写真はこちら。

(昭和35年(1960)建立)

拝殿

向拝下の龍と木鼻の狛犬

拝殿内部

本殿

境内の末社や石碑