豊良(とよら)八幡宮

十和田市洞内舘31 (平成24年7月26日)

東経141度10分01.72秒、北緯40度39分05.75秒に鎮座。

この神社は、十和田市役所の北西6km程の辺り、洞内舘の街外れに鎮座しております。

祭神誉田別尊
誉田別尊にして、応神天皇の御名なり。御父君は仲哀天皇なり。御母君は息長帯姫命にして神功皇后なり。
由緒 豊良八幡宮の由来について、その年代不詳なるも古老の言い伝えによれば、豊良村の西方約800米に位置する上豊良(わらど)の地に八幡宮が祭られたのがはじまりといわれ、その後同村3代の地に遷座し、更に霊地を求めこの舘の地へ慶長17年(西暦1612年)4月15日に遷宮鎮座されたと伝えられている。
明治6年4月には、村社となり、洞内村一円を霞として広く鎮守し、尊崇されている。
境内由緒書き より

豊良館跡
本館跡は舌状台地先端に位置し東・北・西の三面は深い谷に面している。館の規模、遺構、遺出物等については、本格的な調査がなされていないので正確なことは殆ど分かっていない。
一説では、郭内の少し小高い所に二つの不正六角形のものがあり、それ故、「六角館」と呼ばれたというが、それについては他の場所だという説もある。元来この館は蝦夷館と思われているが、天正19年(1591年)におきた三戸と九戸の抗争(九戸の乱)のおりに、三戸側の豊良弾正が九戸側の七戸家国に急襲された所とも。また逆に、九戸側に加担して九戸城で最後を遂げた戸伊良監物(豊良監物)の居館であったともいわれているが、両者とも確かなことは分からない。殊に前者については、口伝の域をでないようである。しかし、何れにしても現段階では、武将たちが本館を利用した形跡は確認されていない。
ここの東方に、本館より大きい100m×75mの向館と呼ばれる蝦夷館があるが、本拠地は本館のほうであったと推定されている。なお、本館とは直接関係ないが、館跡周辺には縄文時代の土器類が多数出土している。

参道入口

参道

境内入口

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(大正9年(1920)旧4月15日建立)

拝殿

木鼻の狛犬

拝殿内部

本殿覆屋