新舘神社

上北郡東北町新舘 (平成21年5月7日)

東経141度11分30.56秒、北緯40度41分50.23秒に鎮座。

【神社情報・gamanさんより】
場所は国道4号線を七戸町役場に向かい北上し、県道121号線を右折します。そこから約3kmほどのところにあります。。

由緒書きによると、この神社は南部藩の祖 南部三郎光行の四男、朝清が七戸に配置されたときに甲州南部庄から八幡宮を遷座したのが始まりとされているそうです。何で甲州から?と思ったのですが、
もともと光行は源頼朝についていた甲斐国の武士で、石橋山の戦いで戦功をあげたため甲斐国南部庄を与えられ、そこから南部氏を名乗り始めたのだから、いわゆる故郷の神社を持ってきたということなのだと思います。しかも南部氏は源氏の流れを汲んでいるので、八幡宮なのでしょう。
ちなみに光行は今の南部町に城を作ったらさっさと甲斐国に帰ってしまい、その子供たちがそれぞれ支配する地名をとって九戸氏、八戸氏、七戸氏、四戸氏、一戸氏等を名乗ったそうです。

境内由緒書

御祭神 誉田別尊
例祭日 九月十日
由緒
 正治元年 (一一九九年) の創建と伝えられる。源頼朝の臣、南部光行が藤原征討の功により糠部五郡を加封され三戸に城を築き、三男の三郎朝清を七戸に配置したが、朝清は正治元年に糠部滝沢から八幡神形を七戸に遷座したのが当神社の創建とされている。当時の名称は七戸八幡宮といわれている。
 それ以後、歴代七戸藩主の崇敬を受け、数次に亘る社殿修復等の棟札、古文書等が残されている。徳川時代になると、北辺警備の要衝七戸城を巡察する盛岡南部藩主が当神社に奉幣して鎮護の祈願をするのを恒例とし、その折の古文書、奉納された武具等が現存している。
 明治になり、明治六年村社に、明治十四年郷社に列せられる。明治三十四年に新嘗祭新穀献納が許され新栗が宮内省に献納された。更に明治四十年神饌幣帛料供進指定を受けた。戦後は宗教法人新舘神社として現在に至る。
青森県神社庁公式サイトより。

神社入り口

境内

拝殿前の浪速狛犬。拡大写真はこちら。

(安政3年(1856)8月15日建立)

拝殿

注連縄。ここ上北郡、今は青森県ですが、江戸時代は南部藩。津軽地方と違い簡素な作りです。

向拝下の龍と木鼻の狛犬

脇障子の浮き彫り

本殿

社殿全景

御神馬

嘉永元年の手水鉢

文化八年の灯籠

脇参道入り口