八幡神社

上北郡七戸町和田下1-1 (平成24年7月26日)

東経141度08分53.41秒、北緯40度41分19.05秒に鎮座。

この神社は、東北新幹線・七戸十和田駅の南南西3.7km程の辺り、和田下の街外れに鎮座しております。

御祭神 誉田別尊・火武主比神

由緒
波木井南部一世実長は、甲斐国(山梨県)波木井の郷を領有し、日蓮上人のため身延山久遠寺を開いた人として知られているが、その4世師行は、後醍醐天皇の側にたって、北条政権打倒の一翼をにない、終始忠節の誠を捧げた。5世政長、6世信政、7世信光、8世政光もまた師行の遺志をついで60年にわたる南北朝時代を南朝方に尽くした。後世これらが「南朝五世の勤皇」と賞賛されたゆえんもここにあった。
政光は、足利方の執拗な降伏勧告に応ぜず、甲斐の領地をことごとく足利に納め、自らは後醍醐天皇から拝領した八戸根城に移ったが、後にそれを兄の子に譲って七戸に退き、応永26年(1419)83才で没した。
小田子不動堂は、この政光によって応永3年(1396)に創建されたと伝えられる。現在の堂は昭和49年に新築されたものであり、八幡宮が合祀されているが、明治の初年頃までは、もっぱら小田子のお不動様として尊信されていた。本尊は運慶作と伝えられる不動像であり、右手に宝剣、左手に羂索を持つ憤怒尊である。
不動堂の創建については、戦いに敗れて天戴の地に帰った政光が、農家の疲弊を眼のあたりに見、農民たちに心の安らぎを与えようと念じたためと言われる。
堂内には見町観音堂と同じく絵馬が奉納されているが、その数は嘉吉元年(1441)、文安2年(1445)と言われるものをはじめ、主として江戸時代中期、新しいものでは昭和11年のものなど合わせて108枚に及んでいる。
これらの絵馬は小田子不動堂をめぐる庶民信仰の実態と推移を理解する上で貴重であるばかりでなく、見町観音堂の奉納物件と両者相俟って良馬の産地として古くから著名だった南部地方における江戸時代の絵馬奉納の特色を示すものとして、また量、質ともに優れた東北地方の奉納絵馬の代表的なものとして、平成2年3月29日、国の重要有形民俗文化財に指定された。
境内由緒書き より。

ようするに、八幡神社は後から合祀されたようです。

参道入口

神額

二の鳥居

社殿

社殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

鳳凰

鳳凰

木鼻の狛犬

神額

社殿内部