弘前東照宮

弘前市笹森町(平成14年8月28日)

 この東照宮は二代藩主、津軽信枚の妻である満天まて姫(徳川家康の養女)の願い出と、幕府の聖俗の両面にかかわる実力者であった天台宗の僧、天海の力により1624年(寛永元)に建立できた。これは全国でも最も早い時期のものである。
 日光の東照宮は江戸を護るために江戸の真北に作られた。北は聖なる場所である。そして、ちょうどその真北に弘前は位置する。弘前の東照宮は江戸のある南を向いている。
これは偶然ではない。津軽藩は藩を護るために、天海は幕府を護るための東北の押さえとして、両者の利害が一致したようである。
 写真の社殿は以前に弘前市のホームページで見た記憶と全然違うので、記憶違いであろうと思って帰り、その後調べるとやはり本殿はこの後ろにあったようだ。

拝殿

由緒書き

御祭神 徳川家康公
天照皇大御神
例祭日 七月十七日
由 緒
 寛永元年 (一六二四年) お城から東方要害の地土渕川の辺に堀を構えて奉還し、一は城の堅めとし、一は庶民の信仰をあつめるために神域をつくり寛永五年 (一六二八年) 社殿を新たに造営し、別当寺院東照院 (一六五四年) とし岩鬼山薬王院叡平寺 (天台宗) と改称、六坊 (坊とは僧侶の居所) を配し、桃井・山辺の二社家を置いて藩費直祭社として運営し、明治初年に至ったのである。津軽藩二代藩主信枚公の正室として家康公の養女満天姫を迎え、東照公真影を拝戴して天海僧正にお願いし、二代将軍秀忠公が許容され東照宮鎮座となった。現在北方には、仙台東照宮、函館東照宮、出羽三山東照宮がある。廃藩後、明治三年 (一八七〇年) 無氏子のため無格社となり、その後明治十二年 (一八七九年) 郷社、 明治十四年 (一八八一年) 県社となる。現在は宗教法人東照宮となっている。
(青森県神社庁HPより)