義経寺

東津軽郡外ケ浜町三厩算用師(平成20年9月10日)

東経140度25分56.66秒、北緯41度11分48.58秒に鎮座。

【神社情報・gamanさんより】
今回は「義経寺」(ぎけいじ)を送りたいと思います。神社ではありませんが、狛犬がいました。ここは龍飛崎の10kmほど手前、国道339号線沿いの三厩にあります。
その名のとおり義経伝説を持つお寺です。平泉で死んだはずの義経は、実は生きて北へ逃れ、荒れた海を渡ろうと持っていた観音様に祈ったところ、龍馬を三頭手に入れたそうです。
この龍馬に乗って、龍飛崎の帯島から北海道に渡ったそうです。「帯島」という名は、義経がここで帯を締めなおした所から付いた名前だそうです。
ここは岩山の上にあり、階段上るのがとても辛かったです。でも景色はすばらしく、境内も良い雰囲気でした。

龍馬山義経寺といい、浄土宗のお寺です。寛文七年(1667)、円空がこの地を訪れた時、海岸の奇岩の上に光るものを見た。その岩は、かつて義経がこの地に逃れ至ったとき、荒れ狂う津軽海峡を前に、観音像をまつり3日3晩の祈願をして竜馬を与えられ渡海できた、と伝えられるところの岩(厩石)で、円空の見た光はその観音像だった。円空はこのいわれを霊夢で知ると、観音像を刻み、観音堂を建立して祀った。これが義経寺の始まりだそうです。

菅江真澄が天明八年(1788)にこの地を訪れていますが、その時は未だ、観音堂の時代だったようです。江戸時代は「龍馬山観音堂」と呼ばれたこの寺も、明治六年(1873)の神佛分離令により、檀家を持たない一祈願所に過ぎなかった観音堂は廃止の命を受けたようです。しかし、存続を願う村民によって今別町本覚寺の末寺として一寺を設け、後に寺号を許され現在の「龍馬山義経寺」と称するようになったそうです。

人気者は簡単に死ねないようです。極めつけはジンギスハーンは義経だったと言うお話かも知れません。

入り口と参道

仁王門

「龍馬山」の額と注連縄

仁王像

手水舎と笹竜胆の寺紋。源氏の家紋も笹竜胆と言われています。

観音堂

空ろな目がやや不気味です。拡大写真はこちら。

(明治35年(1902)1月建立)

向拝彫刻の龍と木鼻の狛犬。なにやら楽しそうに笑っています。

弁天堂 鐘楼
寛政11年(1799)建立の元灯篭

境内の末社?

 文治五年(1189)、兄頼朝の計らいで、衣川の高舘で藤原秦衝に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。これが歴史の通説であるが、義経は生きていた!
 藤原秀衡の遺書 (危険が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし)のとおり北を目指しこの地に辿り着いた。
 近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩、日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め渡海できるように一心に祈願した。
 丁度満願の晩に、白髪の翁が現れ、”三頭の龍馬を与える。
これに乗って渡るがよい。”と云って消えた。翌朝厳上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は、鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることができた。
 それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになりました。
説明板より。

厩石

境内よりの風景