櫛引八幡宮

八戸市八幡字八幡丁3(平成14年8月25日)(平成20年5月初旬 狛犬情報を戴き追記)

東経141度26分16.44秒、北緯40度29分9.15秒に鎮座。

 櫛引八幡は南部氏が本領の甲州から移したといわれ、現在の社殿は江戸初期に南部重直によって整えられたという。宝物館には、巫女さんが鍵を持って付いてきて、扉を開けて蛍光灯と説明のテープの電源を入れてくれる。写真撮影禁止では有るし、巫女さんは入口で待っているので、じっと説明を聞いていたが、国宝 赤糸威鎧の装飾はとても見事と言うしか無い出来映えでした。
世の中には超能力者がいるらしい。撮影禁止なので念写した人がいます。

 御本社・御祭神:八幡大神(誉田別尊)
 脇宮御祭神:天照皇大神、天津児屋根神
 未社・摂社御祭神:大国主神、倉稲霊神、建御名方神、武甕槌神、惶根神、伊弉諾神、伊弉冉神、鳴雷神、水波能賣神、生保馬神、白山比神、泥土煮神、素盞雄神、火産霊神、猿田彦神、大山祗神
 例祭日:1月1日・元旦祭、 1月14日・松焚祭(どんと祭)、 2月3日・厄祓(節分)、 2月20日・御篭祭(おこもり祭)、 4月10日・悶破稲荷祭(境内社:悶破稲荷神社の1年に1度の大祭です。)、 5月14日・お浜入り(御神威の再生・よみがえりの神事で、八幡大神様が御神輿にて小中野の御前神社に渡御します。)、 5月18日・春季大祭(前夜祭)、 5月19日・春季大祭 祈年祭、 6月30日・夏越大祓 焼納祭、 9月13日・秋季大祭(前夜祭)、 9月14 15日・秋季大祭 例大祭、 11月15日・七五三詣、 11月23日・収穫感謝祭、 12月15日・すす払い、 12月31日・年越大祓
 由緒:南部家初代光行公の草創と伝えられる。文治の役(1189)世に云う平泉合戦にて戦功をたてた光行公は、源頼朝より糠部郡(ぬかのぶのこおり)を拝領し、建久二年(1191)に入部したという。その後家臣津島平次郎と天台の僧沙門宥鑁(ゆうばんに)命じ、父信濃守遠とお光公 (加賀美次郎) が甲斐国南な部の郷ごに仁安元年 (1166) に祀っていた八幡明神をこの地に勧請し、津島平次郎の所領六戸の瀧ノ沢村に仮宮を営ませ、更に霊地を求めさせた。御神託により、四戸の櫛引村に、延暦・大同の頃 (800年頃) に坂上田村麻呂が祭った八幡宮の小社があることがわかり、同神同体なので、社地をここに定め、貞応元年 (1222) 社殿を造営し、遷宮鎮座した。これより櫛引八幡宮と称し、南部領総鎮守として尊崇される。
(青森県神社庁HPより)

念写の写真は御覧になりましたか?   パンフレットよりスキャンした鎧の写真はこちら
国宝「赤糸威鎧兜大袖付(あかいとおどしよろいかぶとおおそでつき)」、別名菊一文字の鎧は、鎌倉末期の作、甲冑ともに主要部分はすべて黄金細工で飾られ、模様はことごとく菊というみごとなもので、その豪華さにおいて、奈良春日大社の赤糸威大鎧と双璧をなすものとされています。この鎧は、長慶天皇御料と伝えられていますが、この南朝四代の天皇は、南北朝時代、北朝の勢力に押されて流寓し、崩御の場所も御陵もいまだに不明という伝奇的生涯を送った帝で、ここ南部まではるばる落ちてきた、という伝承がこの地に語り継がれているのです。

別の一領、国宝「白糸威褄取鎧兜大袖付(しろいとおどしつまどりよろいかぶとおおそでつき)は、南北朝の作で別称卯の花威(うのはなおどし)。南部氏七代信光が後村上天皇より拝領したものと伝えられています。南部氏の草創期はナゾに包まれていますが、社宝は南朝との縁(えにし)を暗示しています。
以上 八戸市教育委員会

(櫛引八幡宮の公式サイトはこちら)

由緒書きはこちらで(この頃はカメラが良くなかったもので読みづらいですが、ご容赦を)

神社案内板 神社入口
長い参道 南部駒の狛犬?
台輪鳥居と立派な灯籠
南門前、天保6年(1835)生まれの狛犬
以前の写真が余りに酷かったので、今回【狛犬情報より・gamanさん】が狛犬の写真を送って下さいました。堂々とした素晴らしい出来の江戸流れで、夫と「凄く良い狛犬じゃぁないの?」「そうだね〜、この頃一体何を見ていたんだろうね〜。」と、自分達の未熟さに恥じ入ってしまいました。
狛犬の拡大写真はこちらで
(天保6年(1835)未7月吉日建立)
神橋と重文・南門
拝殿
拝殿の木鼻・狛犬
重文・本殿
【狛犬情報・gamanさん】
私は灯篭からひょこっと顔を出している狛犬さんが気に入ってます。

そうですね、潰れた顔の寄り目で、口の端をチョッと上げた愛嬌のある顔で、お尻を持ち上げて窓から外を眺め、下の優しい龍さんと何やら話している様な…石工さんのお人柄が偲ばれるような素敵な造りですね。