小田(こだ)八幡宮

八戸市河原木字小田18(平成20年5月初旬)

東経141度28分18.56秒、北緯40度32分9.96秒に鎮座。

【狛犬情報・gamanさんより】
 この神社は八戸市内から国道45号線を北に進み、馬渕川を越え、川原木交差点を右折、約1km先の小田交差点左側にあります。狛犬は3組いました。まだ桜が咲いており、あざやかなイメージの神社でした。ただ、ものすごい強風で落ち着いて見てまわることができず、残念でした。あまりの強風で注連縄の大きな〆の子が、横になっています。境内には「義経堂」もあり、この神社は義経伝説があるようです。
 もともとは小田毘沙門堂といい、神仏分離令で改名したようです。毘沙門堂には強風でくじけてしまい、登りませんでした・・・。

 御祭神:誉田別命
 例祭日:9月9日
 由緒:縁起には、平安時代の天喜年間(1046〜1057) 源頼義朝臣が鎮守府将軍に任ぜられ、「陸奥の国」と云われたこの地方を平定した際、八幡の祠を建て鎮守としたと記されています。
 明治の神仏分離令までは小田毘沙門堂といわれ、門は小田仁王門と呼ばれ、当時の記録には、小田山徳城寺という寺院でこの門は、弘化2年(1845)から嘉永7年(1854)まで9年かけて造られたことが記されています。構造形式は、三間一戸の八脚門で市内では唯一のものです。当八幡宮には、毘沙門天像がまつられています。この像の制作年代は不明ですが、江戸時代中期八戸の僧津要玄梁が、享保3年(1718)に補修した墨書が台板に残っています。毘沙門天は、仏教界の守護神である四天王の内、北方守護の多聞天のことで、根城南部氏の北方守護のため毘沙門堂(小田八幡宮)が置かれたと伝えられています。
 又、「義経北行伝説」も残り、義経一行が船で太平洋岸を北上し、八戸に着いたのは文治4(1188)年4月中旬のことと「類家稲荷大明神縁起」は伝えています。八戸の浦に到着した義経一行が、最初に訪れたのは半七屋と呼ばれる有力者で、現在の白金地区浜浦家の祖先といわれています。浜浦家には、義経が出立にあたって書き残したと伝えられる古文書が保管されていましたが、昭和36年5月29日の白金大火で焼失してしまったとのことです。この社には、義経一行が書いたと云われる大般若経の写経と、義経が鞍馬から持参したと伝わる昆沙門天像が所蔵されています。写経は縦60cm、横120cm、高さ90cmの経箱六箱に納められ、約六百巻が残されており、一巻の長さは約11m、字体を見ると6、7人の筆跡とのことです。
又、毘沙門天像は高さ約1m、胸や脛当ての部分に金粉が塗られ、両眼には水晶がはめ込まれており、背中がくりぬかれ、中に小さな八幡像が安置してあります。(旧、義経北行伝説の足跡を追う!(青森県編)参照)

神社入口
一の鳥居に架かる注連縄
左が本、右が末で、左綯い、端の飾り結びが可愛いですね。
表門前にいる昭和16年生まれの狛犬
脇が渦巻き、後頭部がストレートの鬣で、愛嬌のある顔つきをしています。吽の牙がチョコンと見えるのが可愛いですね。
狛犬の拡大写真はこちらで
(昭和16年(1941)旧9月吉日建立)
表門側面から
表門境内側から 表門の蟇股
神池の畔に咲く垂れ桜 境内の様子
境内にいる大正5年生まれの江戸流れ狛犬
垂れ耳でツルツルの頭頂に太い眉、横広の顎に短い口髭を蓄えた、顔つきからすると老成した感じの狛犬です。やや猫背の背には装飾的で長い鬣が流れ、尾も大きな渦が目立ちます。前足は太く逞しく、前後の足先には臑毛が太い輪のように付けられています。
狛犬の拡大写真はこちらで
(大正5年(1916)9月15日建立)
二重の破風が付いた立派な拝殿 拝殿に架かる社額
拝殿の木鼻・狛犬
装飾的な造りで身体の瘤や体毛まで彫られ、瞳は三重の輪で表現されています。
毘沙門堂入り口と社殿
義経堂と末社、招魂碑 末社二社
          境内社
額には「御祭神二柱 蒼前之神 大国主大神」と書かれています。