八戸市長者1-6-10 (令和6年7月30日)
東経141度29分40.95秒、北緯40度30分00.53秒に鎮座。
この神社は八戸市南部の小高い長者山の上に鎮座し、八戸三社大祭でその期間中神輿が納められている由緒ある神社です。
新羅(しんら)という名称は、南部藩主開祖の先祖とされる新羅三郎義光を祀るからだといわれています。創建当初は虚空蔵堂という寺でしたが、明治の廃仏毀釈で神社になったもののようです。
源義経にも関連した伝説があり、義経の家臣板橋長治が、義経が落ちのびて隠れられるように山に木を植え、柴を回してみだりに人が入らないようにして隠れ家を作り、その「長治山」が転じて「長者山」という名前になったのだといわれています。今はもう周囲は住宅地になってしまいましたが、この神社のある長者山の一帯だけは未だにうっそうとした杉林が残されています。
御祭神 素戔嗚尊・新羅三郎源義光命
由緒
前略・当社は、延宝6年(1678)八戸南部2代目藩主直政公が、藩主の守護と領内の五穀豊穣・万民安穏・無病息災の祈願所として、長者山の山頂に神社を創建。社號を三社堂又は虚空蔵堂と称し、歴代藩主の崇敬最も篤い藩直営の神社で、領内の一の宮であり又総鎮守であった。
元禄7年(1694)三社堂を改築更に文政10年(1827)、8代藩主信真公が再改築(現社殿)、同時に桜の馬場も開設して打毬の奉納も創設され、爾来1年も欠かさず、大祭日には、加賀美流附伝騎馬打毬は、今日迄奉納され、明治14年(1881)には、畏くも天皇御巡幸の砌、天覧の栄に浴している。
又、毎年2月17日にえんぶり行列である当社の、稲荷大神の御輿渡御式が、執行されて来たが、これは明治30年(1897)以来のもので、現行の2月17日になったのは、明治42年(1909)旧暦廃止に当り、伊勢神宮の祈念祭の奉幣日に合せたものである。
明治2年(1869)神社制度の確立により、社号を新羅神社と改め、更に昭和51年(1976)に長者山新羅神社と改称して、現在に至る。
境内由緒書き より。
神社入口
境内
拝殿
神額
本殿
長者山桜山招魂社
招魂社を護る狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和12年(1937)旧5月17日建立)
藪中の狛犬
平成14年8月の狛犬
石碑