八幡神社

青森市原別下海原117-3 (令和6年7月24日)

東経140度49分00.31秒、北緯40度50分04.42秒に鎮座。

この神社は、青い森鉄道線・矢田前駅の北東500m程の辺り、下海原の街外れに鎮座しております。

御祭神 誉田別命・大山祇命

由緒
八幡神社は安東初代当主である阿倍盛李氏の創建である。祭神誉田別命と大山祇命を祀る。誉田別命は第15代応神天皇(在位西暦270年2月8日〜310年3月31日)であり諱(本名)を誉田別尊という。武運の神「弓矢八幡」として崇敬されている。また、大山祇命は古事記(712)や日本書紀(720)に登場する「山と海」の両方を司る神である。また酒造の神、軍神、武神としても信仰されている

天台修験阿闍梨法印多門坊
東輪山永禄寺蓮珠院の開祖である多門坊は相模の国鎌倉の天台修験阿闍梨法印を勤めた高僧であり、本八幡神社の別当職を勤めた。
彼は永禄11年(1568)より諸国を巡回しながら法の教授に励行していたが、松島(現仙台市)の在留中に、南部名久井山法光寺の使いの僧と出会い、正式な別当がいない蓮珠院や当八幡宮、稲荷宮の件について話すところとなった。
さっそく翌、永禄12年(1569)の春に法光寺の僧侶が24代南部晴政に謁見の際、「遠地原別は郡司館主の土地であり、土地を守る僧がいない」との旨を伝え、その後当地に下向した。代々別当を勤めてきた小笠原館主と南部八戸からの役人、そして僧との間で「八幡宮と稲荷宮は建武年間より代々、小笠原館主が別当を勤めてきたが、あまりにも恐れ多く、両宮の別当職を多門坊にお願いできないか」と思案し、多門坊に依頼することになった。
元亀元年(1570)天台宗比叡山に登り(誰かは不明)、奥州原別の鎮守である当八幡宮及び稲荷神社の件について申し述べたところ、両宮の別当として東輪山永禄寺多門坊を嘱すとの御印紙をいただくに至った。以来、多門坊はこの御印紙に従い鎌倉寺内より東輪山永禄寺蓮珠院に転院し、当八幡神社の社務を勤めるとともに天台密法を丹精込めて説法することになった。
多門坊は戦国の世に地域の住民はもちろん、当時まだ蝦夷と呼ばれていた浮浪人に対し昼夜怠ることなく仏法を教化した。その指導の効が上がり、蝦夷の館に住む残党も一般住民と和し、谷地や空野の開拓が進み、民家の数も徐々に増えていった。また、神に供える穀物を耕作する無年貢の御供田を当八幡宮と稲荷宮に整備し、30人を扶養したと伝わっている。(以上「鹿内文書」参考)
境内由緒書き より。

参道入口

神額

参道左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(大正10年(1921)8月15日建立)

拝殿

木鼻の狛犬

本殿


境内社

御神馬