金刀比羅神社

由利本荘市矢島町城内八森8 (平成28年8月20日)

東経140度08分11.87秒、北緯39度13分44.04秒に鎮座。

この神社は、由利高原鉄道鳥海山ろく線・矢島駅の北西500m程の辺り、矢島小学校の北隣、八森城址に鎮座しております。

御祭神 大物主命・稲倉魂命

由緒
古伝承によれば、寛永17年庚辰8月、生駒親敬公が当地矢島へ転封のとき、旧領讃岐より南海下向の航路安全のため、象頭山に鎮座せる神霊金刀比羅宮の分影をもたらしたものと伝えられている。
八森陣屋構内に、打越左近の勧請によって堂宇稲荷神社が鎮座していた。
そこへ、仮に合祀安置せられて、社格を領知鎮守社として「矢島藩士族講を結びて尊崇す」とあるように年々5月10日を例祭日と定めている。
併社稲荷神社も崇敬が篤く初午の参詣者が多くみられる。
秋田県神社庁公式サイト より。

由緒
生駒高俊公が寛永17年(1640)讃岐から、矢島に転封されるに当り有力な金刀比羅大権現の分霊を奉持して、従来より打越氏が同所に奉祀していた稲荷神社と合祀し、社格も領地守護の鎮守社として生駒家の武運隆昌と領内安穏を祈願した。
また、民間信仰の霊神として尊信されてきた。
境内由緒書き より。

生駒 高俊(いこま たかとし)
元和7年(1621年)7月、父・正俊の死去により、家督を相続した。幼少のため、外祖父・藤堂高虎の後見を受けることになった。寛永3年(1626年)8月19日、従四位下・壱岐守に叙任された。成年した高俊は、政務を放り出して美少年たちを集めて遊興にもっぱら耽ったこともあって、家臣団の間で藩の主導権をめぐって内紛が起こった(生駒騒動)。寛永14年(1637年)、生駒帯刀らが土井利勝や藤堂高次に前野助左衛門らの不正を訴えた。これに対し、前野らは徒党を組んで退去した。寛永16年(1639年)、幕府は騒動の詮議を始める。寛永17年(1640年)7月26日、幕府は藩主・高俊の責任を追及し、領地を没収し、出羽国由利郡に流罪とした。ただし、由利郡矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町と鳥海町の部分)で1万石を堪忍料として与え、高俊は矢島村に陣屋を構えた。なお、生駒派の中心人物は大名にお預け、前野派の中心人物は死罪となった。
ウィキペディア より

生駒親敬公は幕末の藩主で、版籍奉還により知藩事となったお方です。明治13年(1880)9月9日没

参道入口

拝殿

拝殿前の秋田型狛犬。拡大写真はこちら。
(元治元年(1864)甲子2月10日建立)

拝殿内部

本殿覆屋