八龍神社

男鹿市船越八郎谷地(平成18年7月24日)

 この神社は男鹿市の東端、防潮水門近くに鎮座しています。
 江戸時代の秋田の有名な紀行家・菅江真澄もここを訪れているようで、「真澄記」に「この祠は、世に言う「八郎太郎」が大蛇となり、難蔵法師との戦いに負け、この湖に入った。そこでこの寒風山の麓、湖のほとりに八龍権現として大蛇を祀ったものである。」とあります。
 「秋田の伝説(角川書店) 」には「大昔のこと、秋田鹿角の里に八郎太郎という若者が住んでいました。ある年のこと、仲間の3人と十和田に働きに行きましたが、その日は丁度太郎が炊事当番にあたっていました。そこで太郎が奥入瀬の谷川へ水を汲みに行くと、その川にはイワナが泳いでいたので、3匹捕らえ塩焼きにしました。ところがあまりにもいい匂いがするので1匹食べ、2匹食べ、それでも止められずとうとう3匹とも食べてしまいました。すると喉が焼けつくように渇きだし谷川へ口をつけて飲みましたが、いくら飲んでも渇きは止まりません。とうとう33日間も水を飲み続けて人蛇となり、家に帰ることができなくなってしまったので、谷川を堰き止めて湖をつくりその主となって住みつくことにしました。それが今の十和田湖だと云われています。
 同じ頃、紀州熊野に南祖坊という修験者がおり祈願を続けていましたが、ある夜、権現様が現れ、「鉄の草鞋の緒が切れたところをおまえの住む場所にせよ」と告げられました。そこで南祖坊は全国を行脚し、十和田湖に行き着いた時にその草鞋の緒が切れたので、そこに住みつこうとしたのですが、十和田湖には先に八郎太郎という主がいたのです。そこで激烈な争いがはじまり、南祖坊は法華経を唱えて九竜を生じさせて八郎太郎を襲い、八郎太郎はまだ人聞だったころに身につげていた、箕の一本一本を小竜に変える秘術で戦いました。7日7晩 にわたる激しい戦いの後にとうとう八郎太郎は敗け、十和田湖を後にし、南祖坊が新たに十和田湖の主になりました。
 一方、南祖坊に敗れた八郎太郎は、現在の山本郡琴丘町鹿渡の天瀬川に流れ着きました。そこで八郎太郎は、親切な老翁と老婆の住む家に泊めてもらいましたが、その夜中に恩荷島と陸をつないで大きな湖をつくることを神に祈願し許可を得ることができました。八郎太郎は、お世話になった二人に、「ニワトリが鳴く声を合図に大地震が起き大洪水となります。」と教え、そうそうに二人を立ち退かせました。ところが、老婆が麻糸を忘れたことに気づき家に取りに戻ったとたんに、暁を告げるニワトリが鳴いてしまい、大地が鳴動して湖となってしまいました。洪水に流され溺れそうになった老婆を、八郎太郎は対岸の八竜町芦崎に蹴り上げましたが、老翁は残ったので夫婦は別れ別れになってしまいました。のちに老婆は姥御前神杜として芦崎に祭られた、老翁は三倉鼻に夫権現宮として祭られましたが、最近まで芦崎の家々ではニワトリの鳴き声を嫌い、ニワトリを飼わない家が多かったそうです。
 そのころ、田沢湖には辰子龍が主となって住んでいましたが、八郎太郎と南祖坊はともに辰子龍に一目凄れし、両龍はふたたび田沢湖上で激しい戦いをしました。今度は八郎太郎が勝ち、南祖坊を十和田湖に追い返し、八郎太郎と辰子龍は夫婦となり、冬は田沢湖で一緒に暮らし、夏の間だけ八郎潟に戻ってくるのだといわれ、そのため田沢湖は冬でも凍りませんが、八郎潟は凍結するのだといわれています。」(みちのく怪道風まかせ参照)
 この伝承の龍・八郎太郎を八龍権現として祀ったのがここ八龍神社で、八郎潟周辺にはここの他にも八郎または八龍神社がまだ何社かあるそうです。

社号標
境内入口
参道脇の草むらに直置きの、年代不明、超小顔秋田狛犬。
体つきは円やかで、鬣の流れなど秋田狛犬の特徴を残しながらも、洗練された感じがします。
拝殿脇から 本殿
境内に散在する湖鰡信仰碑、小魚、魚類供養塚。
これらの塚と碑は市指定の有形民俗文化財です。
境内の様子