男鹿市船川港本山門前(平成18年7月24日)
この神社は船川港本山門前に拝殿が建ち、その下の港から999段の自然石を積んだ石段を上がると本殿、俗にいう五社堂が鎮座しています。この神社は秋田行きが決まってからの夫のメイン神社で、どうしても今回ここに行きたいという強い希望に負けて、渋々999段の階段登りに挑戦した私でした。けれど階段は思っていたよりも緩やかで、周囲の自然林の素晴らしさに見とれながらゆっくりと上がっていたら、いつの間にか本堂に着いていた…という感じでした。実は私は、ここの拝殿にいる県の文化財に指定されている石造狛犬を見たかったのですが、その願いは叶いませんでした。
赤神神社について
男鹿半島の本山、真山に祭られている赤神は古くから「漢の武帝」であるとされています。これは、江戸時代に久保田藩士梅津利忠が撰した「本山縁起別伝」にあり、ほとんど通説になっているものです
「当山赤神は、前漢の孝武皇帝の祠なり。旧記にいわく景行天皇二年、赤神天より降れり、あるいはいわく、日本武尊化して白鳥となり、漢の武帝を迎う。武帝は白馬に駕し、飛車に乗り、赤旗を建て、西王母と此の嶋に至る。五鬼は化して五色の蝙蝠となりて之に従う。故に蝙蝠を以って使者となす。時に景行十年冬十月のことなり。天皇、武内宿禰をつかわして北陸道を巡視せしむ。宿禰、此の嶋に至り、神異を見てこれを奏せり。ここにおいて朝廷皇女をして行かしめ、これを祭る。号して赤神という。皇女はすなわち赤神明神という(後略)」
五社堂は赤神神社の本殿とされており、中央堂に主神として赤神を祀ったので、赤神神社の名称になったとされています。建保4年(1216)別当円転が霊夢に感じて鎌倉の右大臣源実朝公に請願、円転に命じて叡山山麓の山王上七社を勧請したもので二社廃れたので五社に配祀されたとされています。現存の五棟の社殿は宝永7年(1710)に建てられたもので、向拝、屋根、柱、組み物などに珍しい
工夫がみられます。
尚、秋田県神社名鑑によれば現在の御祭神は、天津彦火瓊々杵之命、天手力男命、大山祇神、天照皇大神ほか二柱 となっています。
また 伝説によれば、その昔漢の武帝に連れて来られた五色の鬼たちが、畑を荒らし食べ物や娘たちを略奪するなど荒らしまわっていました。困り果てた村人たちは、娘を差し出すことを条件に、一晩で五社堂まで千段の石段を積み上げることを約束させました。999段積み上げ、あと1段という時に一番鶏の鳴き真似をして夜明けを告げたので鬼は逃げてしまい、それ以後村人の前に姿を現さなかったということです。けれど、石段を完成させることのできなかった鬼は憤慨して千年杉の大木をひっこ抜き、逆さに立てたという伝承もあります。
この伝説が今日のなまはげ伝説となり、恐ろしい形相の鬼が、藁箕をつけ、大きな出刃包丁を手に「ウォー、ウォー」と奇声を上げながら「泣ぐ子はいねが」「なまげ嫁はいねが」と家々を練り歩きます。「なまはげ」の語源は「ナモミ(火形)ハギ」つまり、仕事もせずに囲炉裏にあたってばかりいる怠け者はあしのすねに火形がつくので、それを剥ぎ取りこらしめてやるぞ、というところから起こっているといわれています。なまはげは国の重要無形民俗文化財に指定され、12月31日の大晦日の夜、男鹿半島で行われる伝統的な民族行事となりました。(以上五社堂公式HPより抜粋)
赤神神社拝殿、正面と側面から。 | |
鬼の造った999石段の登り口 | だんだん急な苔むした石段になってきます。 |
途中の長楽寺仁王門 | |
仁王門内には白い布をまとった仁王様がいらっしゃいました。 | |
長楽寺・五社堂駐車場からの参道入口 | 宝篋印塔 |
本山門前から五社堂近辺の古地図 今はなき多数の堂塔が、山のあちらこちらに描かれており、 往時の山岳信仰の隆盛が偲ばれます。 |
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復元された除福塚 | |
ここからまた自然林の気持ちの良い森の中、999石段登りの続きが始まります。 | |
「市指定史跡・五社堂境内地」 の案内があります。 |
この辺りからやっと、 木の間越しに五社堂が微かに見えてきます。 |
もちろん我々も井戸の中を覗いてみました。 私ははっきりとその美貌?が写っていましたが、 夫は波紋によってその姿はグチャグチャ。これはどう考えればいいのでしょうか? |
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これが国指定重要文化財・五社堂です。 左から、「十禅師堂」「八王子堂」「中堂」「客人(まろうど)権現堂」「三の宮堂」 (3枚の写真を合成したので、不自然な部分があるかもしれませんが、ご容赦を) |
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