赤神社

男鹿市中国有地内(平成18年7月24日)

 この神社は男鹿半島の最高峰・本山(赤神の岳)山頂に鎮座しています。

 古くから山岳信仰の霊場として栄え、かつては本山山頂は女人禁制の場であり、赤神神社の本殿や薬師堂なども建っていましたが、1952年、航空自衛隊レーダー基地建設のために山頂から遷座されたという事です。

 ここには江戸時代に於ける秋田の有名な紀行家・菅江真澄も文化7年(1810)に訪れ、真澄記に「ここは本山の山頂赤神の嶽。石を積んで囲み、中に薬師如来の堂がある。東には森良山、森山、寒風山が連なり、八郎湖の中から突き出ているように見える。戸賀の浦、根太島、鼻ケ崎、一の女潟などが良く見える。山陰に多くの鹿がいて、笹原の中を群れて一群で去っていった。」と記しています。
 また本山縁起には、「この赤神神社は、赤神、つまり、中国前漢の孝武帝を祀っており、漢では「火=赤」とされていたために、赤神といわれたのでしょう。またある記録には、景行天皇2年に、赤神が天から降りてきたと書かれています。日本書紀には、景行20年に武内宿禰を北陸道などを平定させるため派遣したと記載されており、後には満願上人が、この山に詣でて12神将を建立しました。12神将とは、薬師如来に従う鬼神、つまり夜叉のことです。延暦3年(784)将道が赤神を日光山に勧請しました。貞観2年(860)には慈覚大師が赤神山日積寺永禅坊を建立し、武帝飛来の図を描き、御神体としました。また智人上人のドクロから4cmほどの薬師像をつくり、瑠璃の箱に入れ、石の宝蔵にしまい、山頂の赤神社に安置しました。」とあります。

 この神社へはなまはげロードから三ッ森を経て登ってきましたが、かなりの急傾斜の道路で、それでも航空自衛隊加茂分屯基地への分岐までは快適なドライブでした。分岐点からは未舗装のゴロゴロ道でレンタカーは「アクセルが床に付きっぱなしだ。」の状態だったそうです。途中であったのは自衛隊のトラックと上から降りてきた4WDの車のみ。如何にマイナーな場所に行くか…よく分かりました。それでも何とか平坦な所にでたと思ったら、自衛隊のトラックが止まっておりその先にはチェーンが掛かり、道路封鎖がしてあります。「やばい、せっかくここまで来たのに断念しなければいけないのかしら?」と一瞬考えていたら、珍しく夫が「ここの山頂にある神社に参拝したいんですが、ここから先は車ではいけないんですか?徒歩ならいいでしょうか?」と自衛隊員に聞いています。「そういうことだったら、歩いていくんだったら良いですよ。」 O・Kがでました、それでは行きましょう…。と車を道路端に寄せていると、さっきすれ違った車が何処かでUターンしてきたのでしょう。私達の車の後ろにピタッと車を寄せて男の人が二人降りてきました。その方達は高山植物盗掘を防止する監視員さんでした。何と私達は高山植物を盗掘しに来たと思われ追いかけてこられたのです。「ヴッ〜」こんなに人格高潔、品行方正な(え〜嘘〜!)私達が疑われるなんて…世も末です。 ここからの顛末はそれぞれの写真の解説欄に記してありますから、そちらでどうぞ。

ここが五社堂からの登山道「お山かけ」が自動車道と交差する地点です。江戸時代に於ける秋田の有名な紀行家・「菅江真澄の道・本山赤神の岳に登る。」の案内があり、こんな山奥によくぞ来られたという感じでした。
ここが高山植物盗掘を防止する監視員の拠点の山小屋です。「新奥の細道」の案内もあります。
ここの監視員のおじさん達には一旦は盗掘者と誤解され疑われましたが、用意していた『神社・狛犬』の名刺をお渡しし、「私達は日本全国の神社を訪ねている者で、すでに船川港本山門前の拝殿、五社堂にも参拝し、これからその奥社とも云うべき山頂の赤神社にも参拝に行くのです。」とお話したところ、「東京の人は、暇だね〜。」といいながらも理解して頂き、親切に地図を描いてくださったり、服装足回りの注意を受けたりと、大変お世話になりました。(後で、この地図がなかったら、絶対に赤神社に到達することは出来なかったと、夫と二人で感謝、感謝!!) さぁ、ここから1km歩いての参拝です。ヨッシ〜、気合いを入れて、頑張ります。
写真では見にくいのですが、ここにチェーンが張られ、これより先は自衛隊関係者以外の諸車進入禁止です。 道端左側に並ぶ石碑群。自衛隊が道路を整備したときに付近に散在していた物を纏めたのでしょう。こんなに重い石を担ぎ上げてきたのは昔の人の信仰心の篤さを物語っているといえるでしょう。
歩くこと5・6分、ここが本山赤神の岳、赤神社への登山道入口です。本来ならばこの道を行くのですが、この日は下草がビショビショに濡れており、断念しました。 付近の山の斜面の様子。ガスが掛かり幽幻な雰囲気が漂っています。
本来ならばこの辺りから、右手に日本海、奥に男鹿半島南部の海岸線に沿った街並みまでが見える筈ですが、この日は濃いガスが掛かり、アウト…、残念!。 歩くこと10分位、右手の斜面上に石碑があります。「B−29遭難慰霊碑」でした。昭和20年8月、大館にあった米軍捕虜収容所に食料を運ぶ途中、米軍のB29がここ本山に激突し、11人が死亡しました。その霊を慰めるべく建てたれたのがこの石碑です。不思議な事に南無妙法蓮華経と書かれています。
どのくらい歩いたのでしょうか、濃霧の中に、金網のフェンスと有刺鉄線に囲まれた航空自衛隊のレーダー基地が微かに見えてきました。 本山山頂航空自衛隊レーダー基地正面ゲートです。監視カメラが基地入口に向けられ、巨大アンテナは日本海に向けられています。
神社へは基地正面ゲートから、フェンスに沿って時計回りに3/4周すると行き着けます。 いよいよ神社の屋根がみえる位置まで近づきました。けれどここは神社の裏手にあたり、神社へ降りる道はありません。あとは濡れた木々を掻き分けての藪こぎしか無いようです。
ここが神社の社地まで降りるため、私達が藪こぎをした地点です。 これが先ほどの登山道から上がってくる参道の様子です。ここから降りようかとも思いましたが、藪こぎになりそうだし、木々も下草も湿っているのでパス。
社殿正面と裏側から。今はもう真山・本山・毛無山を縦走する「お山かけ」の登山者以外訪れる人もいないのでしょうか。
  
こんな感じで私達の赤神社参拝は終わりました。
色々なハプニングが重なり、一生忘れられない神社となりそうです。
お疲れ様でした……。