日吉神社

能代市御指南町(平成18年7月25日)

 この神社はJR五能線・能代駅の北北東約600mに鎮座しています。能代を代表する神社で、旧縣社です。
 天文2年(1533)に創建されたといわれていますが、社伝に依れば、当時の能代は未だ海辺の小集落で、住む人も少なく一郷を護るお社も無い状態でした。ある時海中より御祭神が出現され、村の長・清水氏を始め部落の人々に依って一郷鎮守の神としてお祀りされたのが起源と云い伝えられています。御祭神は大山咋大神・大物主大神(日吉大社)、大国主大神(出雲大社)の三柱です。初めは海辺に近い姥ヶ懐に鎮座していましたが、度々の米代川の氾濫によりしばしば社地を遷し、寛文年間、当時の能代奉行・山方杢之助が率先して社殿造営に当り、現在地に遷座しました。古くは秋田氏、ついで佐竹家の崇教篤く、明治には縣社となりましたが、社殿は昭和24年の大火で全焼、37年に復興しました。
 大祭は旧暦4月中の申当日とその前夜の両日にわたり執り行われる中の申祭と、7月26日27日の神輿渡御を中心として執り行はれる神幸祭の二大祭があります。前者は御祭神御出現の日にちなんでの祭事、後者は御鎮座の故地におでましになり、そこより御本社にお帰りになる神事であり、共に御祭神御出現鎮座の由来を今に伝え示す神事といえます。又、中の申祭の前夜の宵祭は、「嫁見まつり」の名で広く知られ、神幸祭の神輿渡御は多くの氏子の若者に依って奉仕され、その勇壮振りに依り「あばれ神輿」といわれています。この行列には、華麗豪華な五丁山(山車)が供奉しています。(日吉神社公式HPより)
 旧縣社の格に相応しい広い社地と、推定樹齢250年以上とされるトチノキやケヤキなどが聳える境内、頭上を飾るこれらの木々の間を通る参道を歩いていくと重厚な拝殿が建ち、自然と頭を垂れ神に祈る…そんな深遠たる雰囲気を漂わせる神社でした。

社号標「縣社 日吉神社」 神社入口

明日7月26日と27日は、その勇壮振りから「あばれ神輿」の称がある神輿渡御を中心として執り行われる神幸祭です。その折り華麗豪華な五丁山(山車)が供奉するのですが、今日はその準備のため各町内へ丁山を運び出していました。暫く拝見させて頂きましたが、華麗に見える丁山も実際はとても重く、動かすのも方向転換も大変な作業でした。神社のすぐ前がJR五能線の踏切で、そこを通過するのが一番大変そうでしたが、夫と「もし電車が来たらどうするんだろうね〜。電車止めちゃうんだろうか?もちろん時刻表は調べてああいう作業をするんだろうね〜。」等といらぬ心配をしていたのでした。

入口の秋田狛犬。とても高い位置にいるこの子達は、洗練されてきてはいますが、大分厳つい感じがします。

(大正8年5月吉日建立)
参道の様子と二の鳥居 長い参道もそろそろ終盤に入りました
年代不明の神殿系ブロンズ狛犬。
参道脇には「見ざる・言わざる・聞かざる」の像 境内から参道を振り返る

遠くから見たときにはあまりの白さにしょうわ狛犬かと思いました。御影石のせいで、明和6年(1769)生まれというお年寄りにもかかわらず色白を保っているのでした。
 この狛犬は江戸中期の明和年間、秋田で活躍した鉱山師・伊多波武助が奉納した物です。羽後鉱山を開発した伊多波武助は、鉱山師として長年にわたって藩財政に貢献したことによって、士分に取り立てられた人物です。伊多波氏の出身は、伊勢国多気郡波多瀬村で、秋田藩佐竹氏の身分取立ての際に郷里の伊勢・多気・波多瀬にちなんだ「伊多波」姓を名乗るようになったといいます。伊多波氏はその後も鉱山師として藩に貢献し、藩も伊多波氏を重用していた様です。この狛犬と同年同月日同石工建立の兄弟狛犬が、能代市柳町の八幡神社にも奉納され現存しています。
 この子達は私達が今回見てきた狛犬の中で一番の高齢です。

(明和6年(1769)正月吉日建立)
重厚な拝殿 本殿
境内社・纏神社 境内社・稲荷神社
三吉神社碑
狛犬の拡大写真はこちらで