東湖八坂神社

潟上市天王字天王(平成18年7月24日)

 この神社は男鹿市から船越水道に架かる八竜橋を渡り、天王橋バス停から旧道にはいると、500m位の突き当たりに鎮座しています。旧縣社というだけあり、大きな杜に囲まれた比較的広い社地を持つ、整然と整えられた神社でした。
 由緒書きには「御祭神は素戔嗚尊。
 今からおよそ1200年前、坂上田村麻呂将軍が蝦夷征伐のため奥羽に出向しました。その時当地に、素戔嗚尊の御神霊を祀り、社を建立したと言われている。
 藩主佐竹公鎮護の神として信仰厚く、秋田12社の1社に数えられ、城下内町 外町川辺 秋田 仙北 山本の各郡の地域が祭礼初穂勧進地に指定されておりました。
 牛のり くも舞など、年中神事は重要無形民俗文化財に指定されております。」とあります。
 この社の創建は、坂上田村麻呂将軍が蝦夷征伐を命ぜられた折、出雲大社に詣で戦勝を祈念し、素戔嗚尊を祀る御品を賜り奥州へと向かいました。そして蝦夷征伐に成功したお礼に、延暦20年(801)北野原東湖宮という所に恩品を納め素戔嗚尊を祀り、社を建立したのが始まりと伝えられています。古くは「御衣宝刀の社」と呼ばれ、さらに中世には「登宇古(東湖)の宮」と称され、また、「副川の社」とも呼ばれました。さらに「天王堂」「牛頭天王神社」「牛頭天王宮」などと種々の社名を持ちましたが、明治になり「東湖神社」、「東湖八坂社」と改め、明治17年には現社名となりました。現在地に遷座したのは平安後期の康平3年(1060)とされ、洪水のたびごとに4度も社を移したと伝えられています。
 年中神事の「統人行事」は、江戸時代の紀行家・菅江真澄も「男鹿の秋風」に詳しく記述しており、いまでも、天王町と船越(男鹿市)が分担して行っているそうです。牛乗りと蜘蛛舞の奇祭を中心とし、統人制のもとに、牛乗りを天王側、蜘蛛舞を船越側が担っています。祭事は、7月8日の「新統お竹受け」に始まり、翌年7月7日の「神輿巡行」で終わります。その間、味噌煮(3月25日)、もやし蒔き(6月20日)、箸削り(6月26日)、柏葉迎え(7月6日)、お竹迎え(7月6日)などの行事が行われ、7月7日の本祭を迎えるのだそうです。本祭では、神社で神楽を奉納した後、神輿が天王・船越を巡行し、八竜橋にさしかかる頃、川岸に天王側から牛乗りが登場、一方船越側は、船越水道に浮かべた船上で蜘蛛舞を演じ、天王側の牛乗りは、7月5日から、神人が一番統宅にこもり、神うつりして、神刀を担い黒牛に乗って、町内を練り歩き、川岸で船に向かって素戔嗚尊が八岐の大蛇を退治した故事に習ったといわれている弓を引く所作をします。これらの神人達は神事が一切終了すると間もなく普通の人に戻るのだそうです。
 (尚この神社に詣でた時間が午後6時を過ぎており、曇天でもあったので、かなり悪条件での撮影となり、ぶれている写真もありますので、ご了承ください。)

社号標 神社入口
入口の弘化2年(1845)生まれの首長狛犬。
厳ついおじさん顔ですが、首が長く顔だけが独立した感じになっています。
眉毛は太く長く獅子鼻で割れた口蓋からのこぎり歯と牙がギザギザとでています。
この子達も秋田では珍しいタイプです。
(弘化2年(1845)6月建立)
参道にいた慶応元年(1865)生まれの太め秋田狛犬。
やや上向きで、比較的扁平顔です。
筋肉や関節が瘤や盛り上がりとなって表現されています。
(慶応元年(1865)6月7日建立)
重厚な拝殿 額に「八坂神社」という字が書かれた
亀の甲羅が奉納されていました。
流石昭和8年生まれ、若々しい感じの狛犬です。
(昭和8年10月7日建立)
本殿 境内社
境内社 境内社
沢山の太平山碑 金毘羅山碑