船津神社

東海市名和町船津 (平成24年4月27日)

東経136度54分57.66秒、北緯35度2分57.5秒に鎮座。

この神社は、伊勢湾岸自動車道・東海ICの東1km程の辺り。臨海工業地帯を擁する街中に鎮座しております。しかし、社は広大な杜に囲まれ、静寂な空間となっております。

船津神社由緒
御祭神 建甕槌大神・塩土老翁大神
この地は十二代景行天皇の御子日本武尊ご東征の時、伊勢より海を渡られて、ここに御船をおつけになり、なわで船を松の木につながれたことによって、名和船津の地名が出来たということである。社伝には、十五代応神天皇の御代(400年)お社を建てられて、船渡大明神の号を賜り、縄三郷の総氏神であったと伝えられる。六十一代朱雀天皇天慶二年(939)勅して、社殿を造営し、四種田(御供田、土器田、油田、番匠田)を賜り神領となる。時に平将門が謀反を起こしたので、藤原忠文征夷大将軍となり、東征の時、当神社に詣で、武運と交通無難を祈願した。それより国司、地頭の崇敬が殊に厚く遠近より参り天下泰平、国家安全、五穀豊穣、交通無難を祈願する者が多くなったという。七十八代二条天皇平治元年(1159)野間の住人長田忠致は左馬頭源義朝に入浴をすすめ、だまし討ちで殺した。義朝の家来渋谷金王丸は義朝の首を奪い返そうと長田のあとを追って当神社の前を過ぎ橋を渡ろうとしたが馬がわなないてどうしても進まない。これは船津大神の神威の故であろうと恐れ、ご神前に引き返して、一心に祈願をこめ、銘刀三条小鍛冶宗近を奉納すると漸く進むことが出来た。世にこれを下馬代の宝刀といい、その所を今トドメキ橋という。しかしこの銘刀は正親町天皇永禄三年(1560)今川義元が桶狭間に陣をしいた時、義元に正宗と取りかえられ、これを達磨正宗といい今も保存されている。
南北朝時代の戦乱によって神事が甚だ衰退したので、神主藤原朝臣早川吉定(今の早川宮司家の中興の祖)は大いに力をつくし、百一代称光天皇応永二十五年正月十一日(1418)社殿を悉く改造した。天正十年九月十三日(1582)三河国刈谷城主水野和泉守忠重は社殿改造費として船津山六町七畝二十七歩を寄進された。元禄八年六月(1695)宰相大納言徳川光友卿(尾張藩主二代)当社にご参拝になり、宝刀正宗をご覧になって大いに感じられ自筆の松の画並びに鶉の画の二軸を賜わる。百十九代光格天皇天命(明?)六年(1786)大納言徳川宗睦卿(尾張藩主九代)も当社へご参拝になり、正宗の宝刀をたいへんおほめになって、初穂金若干を下された。又池田侯より紋付の戸帳、幕、提灯を寄進されたという。その他寛政以後も崇敬者が永代祈祷料として多くの田畑を寄進した。
このように古来よりそのご神徳はあまねく崇く昭和十九年郷社に列せられた。
古来の伝説
当社の御前を航海する船はご神威を恐れて常に敬意を表し、白帆を巻いて過ぎ、陸では必ず馬を下りて一拝しない者はなし。又甕の宝物があって、氏子一同かめを不浄物に用いない風習がある。これを犯す時は、その家必ず栄えないという言い伝え今なお残るという。
境内由緒書き より

地図を見ると神社の北300m程の辺りに「トドメキ」交差点があります。嘗ては橋があったのでしょうか。

参道入口

参道

鳥居

境内

拝殿

厳しい岡崎型狛犬。拡大写真はこちら。
(大正11年(1922)5月建立)

拝殿内部

本殿


津島社 秋葉社
稲荷社 神明社
豊受社 山ノ神社
御嶽社 天満宮
皇太神宮 猿田彦神社