鳳来山東照宮

新城市門谷鳳来寺4 (平成21年10月31日)

東経137度35分25.50秒、北緯34度58分31.25秒に鎮座。

この神社は、仏法僧の鳴く霊峰として有名な鳳来寺山に鎮座しております。我々が参拝する神社にしては珍しく、観光客の居る神社です。又、住所が鳳来寺となっていることからも分かるように、江戸時代は、鳳来寺が別当となっていました。

寺伝では大宝2年(702年)に利修仙人が開山したと伝える。利修は霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したとも伝わる。文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名及び山名の由来となっている。利修の17日間の加持祈祷が功を奏したか、天皇は快癒。この功によって伽藍が建立されたという。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より

東照宮
徳川三代将軍家光が日光の東照宮に参拝されたとき、その縁起に「松平広忠がりっぱな世つぎを得たいと思い、奥方とともに鳳来寺にこもり祈願して生まれた子供が家康であった」と書いてあったことをお読みになって、ここに東照宮を建てようと決心されたのでありました。出来上ったのは四代将軍家綱の代、慶安四年(1657)で江戸時代初期の建築法を残す貴重なものとし国の重要文化財になっている。
境内由緒書より。

江戸時代は、東照宮の運営領を含む1350石の寺領を持ち、山中に大伽藍の立ち並ぶ大寺院だったようです。江戸時代鳳来寺はこちら。
家綱将軍の治世に存在した僧坊は以下の通り。
天台宗:松高院、岩本院、等覚院、不動院、観性院(のちの増道院)、般若院、寿命院、吉祥坊、杉本坊、円蔵坊、円龍坊
真言宗:医王院、藤本院、法華院、円琳院、日輪院、一乗院、月蔵院、尊教坊、中谷坊、善智坊(のちの長順坊)

『ウィキペディア(Wikipedia)』には「日光東照宮・久能山東照宮・仙波東照宮をもって「日本三大東照宮」と称される。」(H21.1.25時点) ややあやふやな記憶だが、「全国的に通用する三大東照宮の定説はない・・・」と書かれていた気がします。東照宮関係者が添削しているのでしょうか。もっとも日本三大何とか、云うものは大抵そういうものかも知れません。最初の二つは確定!。最後の一つを巡ってもめるようです。鳳来山東照宮、仙波東照宮、滝山東照宮、世良田東照宮が競っています。しかし何故三でなければならないのでしょうか。八大東照宮でも良いようなものだが・・・・・。

参道入り口

参道途中の神橋

入り口の石段と社号標。社殿も立派ですが、杉も見事です。

左手は遙拝所。江戸時代は通行手形がないとこの石段を登れなかったようです。
「番所址」
ここは東照宮の番所があった所です。東照宮を直接参拝するには通行手形が必要でした。通行手形を持っている人だけが、番所で紙の緒の草履に履き替えて、石段を上って参拝しました。参拝に訪れた人々のほとんどは、東照宮の社を想像しながら、ここからお参りしました。
鳳来山東照宮

と説明があります。しかし、江戸時代は抑も旅をするのに通行手形が必要だった筈です。伊勢のおかげ参りでなければ、此処まで来た人は必ず手形を持っていたと思われるが、説明板は説明不足。それとも、もう少し有り難がれ、ということなのだろうか。

拝殿

拝殿前の岡崎型狛犬

(皇紀2600年記念 昭和15年(1940)10月17日建立)

丸くなった先代様

家康公は、極めて武運に恵まれた名将で、幾多の戦場に出て一度も弾丸は当たらなかったと、いつの頃からか信じられ、戦場に出る者は、狛犬を欠かせて弾丸除けに持っていった為、丸くなってしまった狛犬。

ここになければ、誰も狛犬とは思わない。石塊となってしまった、初代狛犬。「戦場に召されし兵の守りとて 身を削られき狛犬われは」「戦争の絶えし世なれば神護る 身おば削るな狛犬われの」

虹梁鼻の獏

拝殿内部

中門

本殿

唐松と鷹

狛犬

手水舎

東照宮と鳳来寺の間に居る虎。拡大写真はこちら。

御祭神の家康公は壬寅年寅月寅の日のお生まれ、誰がこの虎を奉納したのでしょう。

一体だけの、これは狛犬。

山の由来となった鳳来寺。東照宮は国の重文ですが、こちらはコンクリート製で、昭和49年の再建。廃仏毀釈の嵐の中、寺は衰微し、困窮の極みにあったようです。大正3年に消失し、戦後になるまで再建すら出来なかった位です。神社として生き残った東照宮以外の貴重な文化財は、大半失われたと思われます。

石仏

嘗てこの地にあった元三堂跡。失われた僧坊跡地にはこのような石碑が立てられているようです。

鳳来寺山の景色