岡崎天満宮

岡崎市中町字北野1(平成18年11月23日)

 この神社は中町の甲山中学校西に鎮座しています。元東海道「岡崎宿」の総鎮守で、それほど広くはない社地ですが、落ち着きのある境内で、早春には観梅が、晩秋には紅葉が楽しめそうです。

 御祭神:菅原道真公、道臣命(みちおみのみこと)
 由緒:今から約800年前、建保2年(1214)秋、宮中に夜な夜な怪しく光る物体が飛来し、その時から、順徳天皇の皇女が病に床伏せられるという事件がありました。その当時、宮中警護の任に当たっていた武将・本間三郎重光は、天皇の命を受け、家来の伴隼人とともに、その怪光物を弓で射落とすことにしました。毎夜、その怪光物との格闘の末、弓の名手であった伴隼人が怪光物を射落とすことに成功しましたが、その骸は野狐でした。しかし、皇女の病は癒えませんでした。天皇は色々なことを試されました。医者に見せ、薬を飲ませ、神仏に祈り、加持祈祷を何度も何度もしました。でも、その功なく、ますます皇女の病は重くなる一方でした。病の原因もわからず、対処の方法もなく、順徳天皇は酷く御悩みになり、陰陽博士に御相談なされました。博士の卜筮(占い)によると、これは射落とした野狐の祟りが原因であることがわかりました。博士の提言により、本間三郎重光の領地であった三河国菅生郷に野狐の遺骸を送り、日本全国・六十余州の名山の土を集め、獅子形に仮山を築き、その面を宮中の方角に望ませ、野狐の霊を慰めるために稲荷社をおまつりしました。
 すると、不思議なことに、皇女の病は癒え、すっかり元気になりました。天皇は、とてもお喜びになり、稲荷社の傍に瑞生山総持尼寺という尼寺を建立しました。そして、皇女御自ら、尼僧となってこの寺にお入りになったのです。建保5年(1217)、この総持尼寺の鬼門除けとして、あの野狐を射落とした弓弦を御神体にして、本間三郎重光の祖神、道臣命を勧請し、北野庄(現鎮座地)に天神社を建立しました。これが当神社の創建で、当時は伴天神とか弓弦天神と称されました。
 その後、元禄3年(1690)に 菅原道真公を合祀し、社名を岡崎天満宮と改称しました。
 (岡崎天満宮公式HPより)

神社入口社号標
「郷社 岡崎天満宮」
境内入口社号標
   
一の台輪鳥居 境内入り口の二の台輪鳥居
明治9年、伝統有る岡崎の石工さんが本格的に狛犬を彫り始めた時期に造られた狛犬で、
阿は角を吽は宝珠を付けています。
愛嬌のある顔つきで垂れ耳、顎髭も鬣も殆ど線書き状態で短めです。尾は太く纏まっています。
(明治9年10月建立)
拝殿 拝殿内の様子
本殿 末社・英霊神社
末社・御嶽社 石像うそ塚と小さな木彫り鷽

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