隅田神社

名古屋市西区幅下2 (平成24年4月29日)

東経136度53分35.42秒、北緯35度10分31.66秒に鎮座。

この神社は、名古屋駅の北東1.2km程の辺り、ビルや住宅がひしめく名古屋の真中に鎮座しております。嘗て隅田と呼ばれたこの辺りは、駄菓子の製造・販売に携わる店舗が立ち並び、名古屋の下町と言った雰囲気の中、狭い路地を入った所にひっそりと鎮まっております。

祭神は須佐之男大神、迦具土大神。摂社は隅田開運稲荷神社、柳龍神社。
創祀はは元禄初年(1688)といわれ大祭は十月一〜二日です。創祀当時、この地域は江川(現在の江川線)の東に沿った農村でした。元禄の初め熱病の流行と村内で起きた火事をきっかけに、疫病防止と安全祈願のため、祭神二柱を祠りました。文政八年(1825)、畑地が開かれ町屋となりましたが、低湿地で、大雨の時に池のようになり、西北の隅へ人が追いやられたため、隅田町と称したとされています。戦後、新道の菓子問屋街はこの辺まで広がり、昭和40年代まで特に賑わいました。
駄菓子を入れた缶を積み重ねて、大風呂敷で包んで背負った「カンカン部隊」は有名です。
一つの神社を一町内の氏子だけでお祀りしていることや、菓子問屋街の中の神社という点が特徴的です。
境内由緒書き より

慶長の清須越により城下町名古屋が誕生したが、この時の町の西限は幅下までであった。築城のための陣屋が設けられ、陣屋跡や美濃路沿いに商人を中心とした町が作られていった。藩政以前のこの辺りは、名古屋城と碁盤割商人街が那古野台地に築かれ、堀川沿いの四間道より東が幅上、西が幅下とされた。西側でも士分以上の侍屋敷町と製造業や卸問屋業等の、美濃路沿いの米蔵のある旧名古屋村の辺りを「幅下」と呼んだのが学区名の由来と伝えられている。
江川線を挟んで東西に一歩入ると菓子問屋の街になる。この地域の菓子は俗に駄菓子といわれる煎餅や飴等が中心で、元禄7年(1694年)に新道が開通した年の暮れに初代笠屋与八(現・古橋製菓(株))が門前町の供物菓子からはじめた。文政の頃(1818年から1830年)から盛況を見せ始めたが、本格的になったのは内外に販路を拡張した関東大震災の頃である。この界隈は昭和46年(1971年)まで路面電車が縦横に走り、「新道・明道町の菓子問屋」といわれて多くの住民が菓子類の製造・販売に携わった。通りには店舗が連なって朝早くから「カンカン部隊」等の利用客で賑わう日本有数の菓子問屋街だった。現在はスーパー・コンビニ時代といわれる大きな社会の変化と人々の嗜好の変化により、店舗数もかなり減少したが、この街の菓子問屋はこれからもたくましく存続していくことを町の人は願っている。
市役所公式サイト より

社号標と一の鳥居

参道

嘗ては須佐之男・迦具土神社と呼ばれていたようです。

参道途中一体fだけの浪速狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

覆屋

大口を開け笑う浪速狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和9年(1934)10月建立)

中央社殿

左右の社殿
御神木