東照宮

名古屋市中区丸の内2-3-37 (平成24年4月28日)

東経136度54分08.12秒、北緯35度10分27.51秒に鎮座。

この神社は、名古屋城の南1km程の辺り、正に名古屋のど真ん中と言っても良い辺りに鎮座しております。地図を見て戴ければ分かるのですが、那古野神社の隣と言うか、地続きになっています。しかし、入口は反対向きになっております。

御祭神 徳川家康公

当社に奉斎する家康公は尾張徳川家中興の祖にして名古屋の地を開き城を築きて第九子義直公(尾張藩祖)を以て始めて居城せしめられ名古屋開府の祖神にして恩神でもあります。
家康公逝去後三年即ち元和五年(1619)九月十七日に義直公は日光山鎮座の式に準じて城郭内三の丸に社殿を創建し天台宗尊寿院並びに神主吉見氏を以て奉斎せられ社領一千石を附せられたが廃藩と供に廃せらる。
明治五年村社に列せられ、同年八月八日県社に昇格、同九年十月旧藩立校明倫堂跡地即ち現在地に遷座される。建物は創建以来の権現造の本殿、渡殿、楼門、唐門、透塀、楽所、社務所等極彩色の国宝の諸建造物が並び輪郭の美を極めていたが戦災を被り烏有に帰す。
現在の本殿は昭和二十八年十月尾張徳川家より藩祖義直公の正室高原院殿(春姫)の霊廟(慶安四年(1651))を移築し、社殿とする。
昭和三十五年六月愛知県重文に指定さる。
例祭は家康公三年忌に当る元和四年より斎行せられ名古屋祭と称し十六日は舞楽を奏し、十七日は神幸の儀が行なわれ御輿を始め山車九両が若宮八幡社迄渡御す。山車は戦災に依り悉く焼出せり。
境内由緒書き より  名古屋東照宮公式サイトはこちら。

尾張藩初代藩主徳川義直が、父徳川家康の三回忌である1618年(元和4年)に大祭を行い、翌1619年(元和5年)、名古屋城内三の丸に取り込んだ亀尾天王社(現在の那古野神社)の隣地に東照宮を勧請し、成瀬正成、竹腰正信を奉行にし、南天坊天海を導師とし9月17日家康の神像を祀ったのが創祀。三之丸東照宮とも呼ばれた。創建当時は本殿は権現造、楼門、唐門、渡殿、祭文殿等があった。
1875年(明治8年)名古屋鎮台が城内に置かれたのを機に、天王社とともに旧藩校明倫堂跡地である現在地に仮遷座した。1876年(明治9年)本遷座。社格は1872年(明治5年)5月の時点では村社だったが、1875年(明治8年)8月に県社に昇格した。
1875年(明治8年)、後に第二代名古屋市長となる志水忠平が東照宮に徳川義直の合祀を請い、許可を得て同年6月20日、奉斎式を行った。
1898年(明治31年)、初代名古屋市長だった中村修が東照宮に徳川慶勝の合祀を請い、許可を得て奉斎。
1924年(大正13年)10月28日、義直・慶勝の御霊を旧藩士が新たに創建した尾陽神社に遷して奉斎。
1945年(昭和20年)5月14日の空襲により、義直以来の本殿、主要建造物を焼失したが、1954年(昭和29年) 建中寺より義直の正室春姫(高原院)の御霊屋を移築して社殿とした。この御霊屋は1651年(慶安4年)に万松寺境内に建てられ、1914年(大正3年) に建中寺へ移築されたものであった。1960年(昭和35年)に愛知県の有形文化財に、また1992年(平成4年)には名古屋市の都市景観重要建築物に指定されている[1]。
ウィキペディア より

神社入口

参道。公式サイトに「名古屋市内全般にして氏子なし」と書かれています。そのせいか、境内は駐車場のようです。

手水舎

明倫堂跡の説明

境内。左手は東照宮会館。右手が参道。

参道

岡崎型のはしりと言ってよいのでしょうか。拡大写真はこちら。
(明治33年(1900)2月建立)

拝殿

東照宮は元和五年(1619)尾張藩祖義直が、名古屋城三の丸に創建、明治九年(1876)にこの地にうつされたが、昭和二十年戦災により焼失した。
現在の社殿は、義直の正室高原院の霊廟で、万松寺内にあったものを大正三年(1914)建中寺に移し、更に昭和二十八年に東照宮社殿として移建されたものである。
棟札によれば慶安四年(1651)の建物である。県指定文化財。
名古屋市教育委員会

本殿


福神社