桜天神社

名古屋市中区錦2-4-6 (平成24年4月29日)

東経136度54分14.68秒、北緯35度10分10.36秒に鎮座。

この神社は、桜通線・丸の内駅の東200m程の当り、オフィスビルが立ち並ぶ中、ビルの谷間に埋もれるように鎮座しております。

祭神 菅原道眞公
例大祭 三月二十五日、九月二十五日

織田信秀(信長の父)は菅原道眞公を深く信仰し京都の北野天満宮より、公の神像を勧請して、那古野城中に祠を祀った。これを天文七年(1538年)現在の地に移した。愛知県下で最も由緒ある天神社で元治、宝暦年間や昭和二十年三月の大空襲など三度の戦火にも御神体は氏子により守られ現在祀られている。
祭神、菅原道眞公は代々文章博士をつとめる家に生まれ、十歳にしてすべての学問を修め、とくに書道では、弘法大師・小野道風・菅原道眞の三人は書道の三聖といわれたことから学問の神様として崇敬されて来た。
市博物館に所蔵されている「名古屋名所図絵、尾張名所団扇絵」には桜天神社祭礼(三月・九月)の植木市の賑わいの様子が画がかれ、昭和初期までの繁栄ぶりがしのばれる。現在、春秋の大祭には献書会が開かれ、学業向上・入試合格祈願の参拝者が多い。

神社敬称の由来
織田信秀が天文七年(1537年)京都北野より菅原道真公の木像を迎へこの地に遷座し、おまつりした。
この境内には桜の大樹あり「櫻天満宮」といい、多くの人に親しまれてきたが明治維新(1871年)神佛分離令の折り「菅原神社」と敬称し明治三十五年管公千年祭を記念して「菅原神社」の社碑を建立した。終戦後の昭和二十三年(1948年)の法令により「宗教法人 天神社」としたが通称「桜天神」と敬称し崇敬せられている。
境内由緒書き より

織田信秀が北野天満宮から菅原道真の木像を勧請して那古野城に設けた祠に奉ったのが始まりとされる。現在地へ移された1537年(天文7年)を創建としている。当時この場所は萬松寺の境内でありその鎮守として置かれたが、1610年(慶長15年)の名古屋城築城にあたって萬松寺が大須に移った後も、社はそのまま残された。
この地は桜の名所で多くの桜の大樹があった事から「櫻天満宮」「桜天神」と呼ばれる様になった。名古屋城築上の際には加藤清正がこの地に本陣を構えて指揮を取り、また茶会を度々催した事が伝えられている。桜の大樹は1660年(万治3年)の万治の大火で焼失したが、桜天神の名前は残り、やがて現在の桜通の由来となった。
ウィキペディア より

信長が父信秀の葬儀で位牌に抹香を投げ付けたエピソードがここ萬松寺。織田家とは縁が深かったようです。

神社全景

社号標

鳥居。額は「天満宮」。

空襲で焼かれたようです。剥落が痛々しい浪速狛犬。拡大写真はこちら。
(明治31年(1898)建立)

願の牛の水。ここでは柄杓に願い事を書くようです。

「うそ」の手水舎

参道突き当たり、神楽殿か。

拝殿

神額

拝殿内部

本殿の縁側に居ると思われる、神殿狛犬。

蛭子社・大黒社・少彦名社・秋葉社・猿田彦社・金刀比羅社・白太夫社