田光(たこう)神社

名古屋市瑞穂区大喜新町3-23 (平成24年4月27日)

東経136度55分38.87秒、北緯35度7分25.51秒に鎮座。

この神社は、神宮前駅の東1km程の辺り、名古屋市の街中に鎮座しております。街中ですが名古屋市指定保存樹等も多数あり、米軍空襲による被害は免れたのでしょうか。境内は巨木が生い茂る、落ち着いた神社となっております。

田光八幡社由来
田光八幡社は延暦元年(平安朝前期今より1220年前)熱田神宮大内人守部彦正(大喜氏)が八幡社を勧請し社を建てたのが始まりと傳えられ、以後元禄十年(江戸中期今より314年前)まで熱田大宮司の配下に属し、熱田神宮の社僧が祭典には出仕し、大般若等を執り行い、爾来守部氏が代々神主として奉仕した由緒ある社であります。熱田神宮の古記によれば、毎年元日老若男女を問わず熱田七所参詣、神宮寺、大喜宝殿(又は大喜神社という)高蔵宮の三丘を拝す云々とあり、御改造の折には、旧殿を拝領し本殿となすこと古来よりの慣例なりと傳えられております。
明治六年三月十五日神宮の龍神社の旧殿は即ち現在の本殿であります。祭神は應神天皇、仁徳天皇、神功皇后の三柱で摂社として、八剱社、白山社、稲荷社、白龍社が祀られており、境内には「尾張七本楠」一たる老楠が天を覆いその根方には径八寸程の穴があり、白龍が棲み参詣者は鶏卵を白龍に供えると願いごとが叶えられると傳えられています。又本殿の前方には夫婦円満の神木「和合の木」があり、丑満刻に中央の輪くぐりをすれば子供が授けられると古文書は傳えています。

田光神社と守部宿禰
第十二代景行天皇には双生子の男の子があり兄君を大碓命と申し上げ弟君を小碓命と申し上げます。小碓命はのちに熊襲征伐や東夷を討ち平げた古代武勇の人、日本武尊であります。大碓命はやや温和な性格であったようで父天皇からうとまれていたようであります。大碓命の御子押黒之弟日子王(オシグロノオトヒキノキミ)その子牟宜都守(ムギツノカミ)と続き守部氏の祖で、初代は守部宿禰孫谷(ヒコヤ)は熱田神宮の社職として朱鳥元年西一海士郡司兼祭主正祝詞司大内人に任命されその子孫は代々正六位大内人として熱田神宮に社職として明治四年迄奉仕した。また草薙剱の御受取の奉迎使としてお出迎えしたと熱田神宮縁起にみえており、延久年間第十九代彦正が、八幡社を勧請し社を建てたのが始まりと傳えられています。
境内由緒書き より

田光神社(たこうじんじゃ)は、名古屋市瑞穂区大喜新町にある神社。「田光八幡社」とも称する。
創建は不明。熱田神宮の真東の鎌倉街道沿いにあり、熱田神宮の遙拝所であったと伝えられる。かつては神宮寺、高座宮とともに熱田神宮関連の神事が行われていた。
ウィキペディア より

参道入口。左手は田光稲荷社。

一の鳥居と社号標

参道

二の鳥居

境内

拝殿

社額

本殿


白龍社

弁才天

八剱社・白山社

田光稲荷社参道入口

鳥居型提灯掛

社殿

お狐様

弘法大師お手植えなったと伝えられる楠

和合の木
いつの頃からか、この異質の二本の木は、交わり合って長き年月を経ています。
夫婦円満、子授け、そして浮気封じに霊験あらたかだと言い傳えがあります。
丑満刻に中央の輪を潜る(木を七廻り半する)と子供が授けられると古文書は傳えています。