富部(とべ)神社

名古屋市南区呼続4-13-38 (平成24年4月27日)

東経136度56分4.05秒、北緯35度6分7.19秒に鎮座。

この神社は、名鉄本線・桜駅の西300m程の辺り、呼続公園の東隣に鎮座しております。広い境内と立派な社殿を持つ由緒ある神社です。

祭神 須佐之男命・田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命・菊理姫命

当社はもと「戸部天王」ともいわれ、松平忠吉(徳川家康の四男)が病気平癒を祈願・快復した報恩のため、慶長十一年(1606)本殿、祭文殿、回廊、拝殿を建てたと伝えられる。
本殿は慶長当時の形態を今に伝え、とくに正面の蟇股、屋根の懸魚、桁隠などによく桃山時代の特徴をそなえており、国の重要文化財に指定されている。祭文殿と回廊は、市指定の文化財となっている。
名古屋市教育委員会

当社は慶長八年(1603)津島神社の牛頭天王を勧請したもので、「戸部天王」とも「蛇毒神天王」とも呼ばれてていた。牛頭天王は神道だけでなく、仏教、陰陽道でも奉られる神で、神道では病魔を自在に操る神として、仏教では病魔を操り四季を掌る神として、陰陽道では天体と方位を掌る神として、大切に奉られている。
主祭神は素戔嗚尊(牛頭天王)で明治十一年(1878)になって田心姫命、瑞津姫命、市杵島命、菊理姫命の四神を合祀した。
清洲城の城主松平忠吉(徳川家康の四子)は当社の霊験あらたかなるを知り、病気平癒の祈願をしたところ、快方に向い日ならずして回復したといわれその恩に報いるため慶長十一年(1606)社領として百石を与え、本殿、祭文殿、回廊を建て、神宮寺として天福寺(真言宗智山派)を興した。(天福寺は明治政府の神仏分離令により廃寺、この時神社では牛頭天王を同一神とされる素戔嗚尊の名を借り存続される。)
回廊は改築されているが、本殿と祭文殿は造立当時のものである。本殿は一間社流造、桧皮葺で、正面の蟇股、破風、懸魚、等桃山時代の建築様式をよく伝えており、昭和三十二年(1957)国の重要文化財に指定された。
祭文殿は回脚門形式、回廊は切妻造左右四間の複廊で桧皮型銅版葺である。平成八年(1996)名古屋市文化財に指定される。
境内の山車蔵には、享保十二年(1727)作といわれる高砂車山車が納められている。この山車は車体が大きく三階の上に更に高く、いわゆる高砂車を象徴する大きな松の木を背景にして屋形を据え、その前にと姥の人形が置かれている。昭和四十八年(1973)名古屋市文化財に指定される。江戸時代、旧暦六月十二日の例祭日には金繍の幕を巡らし、氏子が挙って曳行したが近年老朽化が著しく、十月の例祭日には蔵の中で組立られ、祭の象徴となっている。
境内由緒書き より ----> 原文はこちら。

由緒書きによれば、別当は天福寺とありますが、すぐ北隣の長楽寺の由緒には「慶長8年(1603年)清洲城主松平忠吉が、当時境内にあった素盞鳴尊を祀る祠に病の平癒を祈願し回復した事から、慶長11年にこの祠を東に移して富部神社とするとともに、書院、客殿等の諸堂を建てたとも伝わる。」とあります。慶長11年社殿の造営以後、長楽寺から切り離されたようです。稲荷山長楽寺の公式サイトはこちら。

参道入口

社号標と鳥居

参道

境内入口

境内

祭文殿と回廊

本殿


八王子社・居森社 富部龍王社
御神木の楠