清水稲荷神社

名古屋市南区呼続4 (平成24年4月27日)

東経136度56分05.36秒、北緯35度06分07.65秒に鎮座。

この神社は、名鉄本線・桜駅の西300m程の辺り、呼続公園の東隣に鎮座しております。しかし、独立した神社ではなく、曹洞宗・稲荷山長楽寺の鎮守社となっています。

寺伝によれば、弘仁12年(821年)に空海が巡礼に訪れた際に見た夢のお告げで、呼続の浜に七堂伽藍を創建。真言宗戸部道場寛蔵寺と命名して「鎮守清水叱枳眞天」を安置したという。
その後、寺は一山十二坊を有するまでになったが、やがて寺勢も衰えた。それを文明年間(1470年頃)に義山禅師が再興し、永正5年(1508年)に今川氏が諸堂を再建。この頃に曹洞宗の寺となり、明谷禅師が寺号を長楽寺と改めた。
慶長8年(1603年)清洲城主松平忠吉が、当時境内にあった素盞鳴尊を祀る祠に病の平癒を祈願し回復した事から、慶長11年にこの祠を東に移して富部神社とするとともに、書院、客殿等の諸堂を建てたとも伝わる。
山号にもあるように境内の一角には稲荷神を祭る清水稲荷が置かれ、神仏習合となっている。また、盲導犬サーブの墓もここにあり、近年はいわゆるペット供養の方面が有名である。
ウィキペディア より

長楽寺公式サイトはこちら。

長楽寺入口と一の鳥居

寺号標「准四國八十八ヶ所 弘法大師奉安地」

参道

二の鳥居

境内

拝殿

拝殿内部

社額

拝殿内のお狐様

本殿

謎の石像

石仏

平成13年(2001)は、東海道に宿駅制度が制定されてから四百周年にあたり、この碑が建てられたようです。

宿駅制度制定四百年記念碑
今に残る東海道は、徳川家康による宿駅制度制定以来、わが国の代表的な幹線道路として産業・経済・文化の発展に大きく寄与してきた。江戸時代東海道の西側には、呼続浜の潮騒が磯を洗い、大磯の名を残している。ここで造られた塩は塩付街道を通じて小牧・信州に送られていた。東側には、松林を遠く望む風光明媚な景勝の地として有名であった。
現在は繁華な町となるも、長楽寺・富部神社・桜神明社など、名所旧跡を多く残し、今日の至るまで数々の歴史の重みに想いをはせるものである。

古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、「松巨島」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ。これが「愛知」の地名の起原になったと言われている。
芭蕉は「寝覚めの里よびつぎ」と書き記し、この地に足跡を残している。また、山崎の長坂(今より急坂であった)に接する山崎の立て場は、宮の宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついだことから「よびつぎ」の名があるとも言われている。
記念碑原文はこちら。

「宿駅」とはもともと街道沿いの集落で、旅人を泊めたり、荷物を運ぶための人や馬を集めておいた宿場のことです。また「伝馬」とは、幕府の公用をこなすために宿駅で馬を乗り継ぐ、その馬のことをいいます。
そして、公用の書状や荷物を、出発地から目的地まで同じ人や馬が運ぶのではなく、宿場ごとに人馬を交替して運ぶ制度を「伝馬制」といいます。
伝馬制は古代律令制や戦国大名などによっても採用されていましたが、徳川家康によって本格的に整備されたものです。徳川家康は関ヶ原の戦い(1600年)に勝つと、全国の街道の整備を始めますが、その皮切りとして慶長6年(1601)に東海道に宿駅伝馬制度をしいています。
これにより、各宿場では、伝馬朱印状を持つ公用の書状や荷物を次の宿場まで届けるために必要な人馬を用意しておかなければなりませんでした。伝馬は当初36疋と定められていましたが、その後交通量が増えるとともに100疋に増えています。
こうした人馬を負担するのは宿場の役目でしたが、その代わりに、宿場の人々は屋敷地に課税される年貢が免除されたり、旅人の宿泊や荷物を運んで収入を得ることができるという特典がありました。
国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所