鳴海八幡宮

名古屋市緑区鳴海町前之輪23 (平成24年4月27日)

東経136度56分46.93秒、北緯35度4分16.41秒に鎮座。

この神社は、JR東海道本線・大高駅の北東500m程の辺り、鳴海の街中に鎮座しております。街中ですが境内は広く、樹齢千年を超える楠の御神木等があり、緑豊かな落ち着いた境内となっています。社殿がコンクリート製なのが気になりますが、伊勢湾台風で倒壊と聞けば、台風銀座のこの辺りでは致し方ないと思われます。

祭神 応神天皇(品陀和気命)・神功皇后(息長帯日賣命)・玉依毘賣命・邇々藝命・月讀命

御神徳
応神天皇、神功皇后は大陸文化を我が国に輸入し、日本文化興隆を図られた神であり、家内安全、厄除、開運の御利益あらたかであると尊崇される。応紳天皇は神功皇后の御子で、古くより聖母子神として、安産、子育ての神としても深く信仰されている。玉依毘賣命は神武天皇の母で、縁結ぴ、安産の神として信仰される。邇々藝命は天照大神の孫で天孫降臨の主役となり、交通安全の紳として信仰される。月讀命は天照大神と同時に生れ、月を見て暦を見る神であり、農業、漁業を始め生産、産業の神どして信仰されている。

由緒
八幡宮の本宗は大分県宇佐市鎮座の宇佐八幡宮である。古く飛鳥時代より朝廷の尊崇を受け、貞観元年(八五九)に山城国に石清水八幡宮が勧請された。
鳴海八幡宮の創建は詳らかでないけれども、貞永元年(一二三二)に久野氏初代大賀元久社職となり、三代久野屋仲次郎太鳴海両宮神主職を嗣ぎ、武官を兼ね三ヶ庄を給ふとあり、それ以前の創建と思はれる。
境内に聳える大楠は、室町時代に既に大木であったと伝へ、神木として扱はれる。
弘治三年(一五五七)久野家十一代保清二郎左衛門の時、今川義元が鳴海城城主を通じて、八幡宮及び東宮に神田と禰宜屋敷との朱印状を与へた。
次いで天正十七年(一五八九)山口長次郎重政が両宮に神田を寄進した。元和八年(一六二二)御本殿再建の棟札がある。神輿は古いものが中絶していたので宝永四年(一七〇七)に新調した。
毎年八月十五日(今十月十五日迄日曜日)の例祭には神輿の渡御があり、十五町内の氏子の奉仕により、神宝等を奉持し、長蛇の如く町内を巡幸する。又町内より五台の山車の奉曳があり、夜には数百の小提燈を点け、囃子賑やかに練り、近郷近在よりの参詣者で町中賑合ひ、今も衰へず。
系図に拠れば、二十二代、二十三代、二十四代は従五位下に叙せられた。現二十八代に至るも、代々八幡大神、神宝等を奉護している。
明治五年村社に列格、明治四十年幣帛料供進社指定村社となる。明治五年以前は八幡宮で、以後は八幡社であった。昭和四十三年、伊勢湾台風で倒壊した本殿を新築し、同時に鳴海八幡宮と改称した。
参拝の栞 より

由緒
創建は不明。貞永元年(1232年)に久野家初代が社職となった記録がある。
境内に聳える大楠は室町時代には既に大木であったと伝えられており、樹齢1000年〜1200年と推定され、御神木とされている。
明治5年(1872年)、村社に昇格。神社名を八幡社から八幡宮へ改める。
明治40年(1907年)、幣帛料供進社指定村社となる。
昭和34年(1959年)9月、伊勢湾台風により本殿倒壊。
昭和43年(1968年)、本殿を新築するとともに、鳴海八幡宮と改称。
ウィキペディア より

境内案内図

神社入口

境内正面

鳥居

境内

拝殿

筋肉隆々の昭和狛犬
(昭和55年(1980)5月吉日建立)

社額

拝殿内部

本殿

本殿脇の狛犬
(年代不明)

北野天満社

稲荷社参道入口

稲荷社殿

香良洲社(からすのやしろ)参道入口

社殿

國造社・御鍬社・秋葉社・高良社・金刀比羅社・須佐之男社

祓所社

社務所

御神木、楠の木