氷上姉子(ひかみあねご)神社

名古屋市緑区大高町火上山1-3 (平成24年4月27日)

東経136度55分59.61秒、北緯35度3分29.88秒に鎮座。

この神社は、名古屋市を南北に走る、高速3号大高線・大高ICのすぐ西側、火上山の東側山麓に鎮座しております。周りは住宅地ですが、神社周辺から末社の元宮にかけては、鬱蒼とした森となっており、名古屋の街中とは思えない雰囲気となっています。

御祭神 宮簀媛命
古代尾張の開拓神であった天火明命の子孫で尾張の国造として火上の地を本拠としていた乎止与命(おとよのみこと)の女で古代随一の英雄と讃えられた日本武尊が東国の平定の帰途この地に留まられた際に結婚され、尊の薨去後草薙神剣を奉斎守護してやがて熱田神宮御創祀への貴い道を開かれた方であります。よく民生の安定と郷土の発展に尽し敬婦の鑑と仰がれ広く崇敬と信仰を集めている。

熱田神宮摂社で祭神宮簀媛(みやすひめ)命を祀る。「寛平熱田縁起」によれば、日本武尊を、建稲種命が火上(現大高町)にお迎えした時、妹の宮簀媛を妃とされ、東征の帰途にも立寄られ、草薙剱を留められたという。仲哀天皇四年、館跡に社殿を設けて媛を祀ったのが起原で、持統天皇四年(690)に現在地に移ったといわれる。
名古屋市教育委員会

当社は昔から「お氷上さん」と親しく呼ばれ、尾張氏の祖神として、大高町はもとより、広く当地方一円の人びとから厚い崇敬を集めています。
御祭神の宮簀媛命は、尾張の国をおさめておられた乎止与命の女で、古代随一の英雄とたたえられた日本武尊が東国平定からの帰途、この地に留まられた時に結婚されました。その後、尊が伊勢の国の能褒野で亡くなられてからは、尊から託された草薙神剣をこの地で守護してこられましたが、やがて神剣を熱田の地へお祀りされ、熱田神宮御創祀の貴い道を開かれた方です。・・・・・
境内由緒書き より

宮簀媛(ミヤズヒメ)は、日本神話に登場する尾張国造の乎止与命(オトヨ)の娘。『日本書紀』では宮簀媛、『古事記』では美夜受比売。父の乎止与命は天火明命(アメノホアカリ)の子孫。
日本武尊(ヤマトタケル)の東征の帰路、尾張滞在の際に娶られる。日本武尊が能褒野で亡くなると、日本武尊より預けられた天叢雲剣(草薙の剣、三種の神器の一)を奉斎鎮守するため熱田神宮を建立した。
『日本書紀』によれば、日本武尊は東征の帰途、尾張へ入り尾張氏の娘宮簀媛を娶って滞在した。やがて近江国の伊吹山に荒ぶる神がいると聞いて、天叢雲剣を媛の家に残し素手で退治に出かけた。しかし、山道で神が大蛇に化して出現したのを無視したところ、神は氷を降らせて尊を迷わした。このため尊は失神し、山下の泉でようやく正気を取り戻したが、病の身となっていた。そして尊は尾張へ戻るが、媛の家には寄らず、そのまま伊勢に向かったという。『古事記』にも同様の話を記載するが、美夜受比売を尾張国造の祖とし、倭建命は比売の月の障りをおして交わったという。またその結婚は東国へ向かう途中に尾張を通った時に約束がしてあったとする。『尾張国風土記』逸文の熱田社由来および『熱田大神宮縁起』には、日本武尊が尾張連らの遠祖である宮酢媛命を娶って宿泊した時、剣が神々しく光り輝いたため、宮酢媛命にその剣を奉斎することを命じ、そこで建てたのが熱田神宮であるとされる。
ウィキペディア より

熱田神宮の摂社で延喜式内社。
仲哀天皇4年(195年)、天火明命の子孫で尾張国造だった乎止与命(おとよのみこと)の館趾の地に創建されたと伝えられている。持統天皇4年(690年)に火上山の麓の現在地に遷座。旧社地には元宮社が鎮祭された。
かつてこの地は火高火上(ほだかひかみ)と称しており、「延喜式」には火上姉子(ほのかみあねこ)神社と記されている。この地域に火災が度々起き、永徳3年(1382年)には火上姉子神社が被害を受けた事から、火高を大高に、火上を氷上と改めたとも伝わるが、同神社のパンフレットには「貞治3年(1364年)の『尾張国内神名牒』には「従一位上氷上姉子天神」と記されていた」ともあり、この部分は若干混乱している。また、後に地名は「火上山」に復して現在に至る。
なお、「姉子」とは「夫のない乙女」の意味で、日本武尊が東征の帰途に宮簀媛命を偲んで詠んだ歌から付けられたと言われている。
現在の本殿は明治26年(1893年)に神明造に建て替えられる以前の熱田神宮の別宮・八剣宮の本殿を移築したもので、戦災を免れた貴重な尾張造である。
ウィキペディア より

神社の北900m程に立つ一の鳥居

社号標と参道
案内板と参道

二の鳥居

参道

境内入口に立つ三の鳥居

境内

拝殿

社額

拝殿内部

鷹の絵馬

殆ど見えない、尾張造の貴重な本殿。

手水舎