多奈波太(たなばた)神社

名古屋市北区金城4-13-16 (平成24年4月28日)

東経136度54分31.06秒、北緯35度11分24.19秒に鎮座。

この神社は、名古屋城の北東1km程の辺り、住宅やマンション等が立ち並ぶ中に鎮座しております。

平安時代に編纂された『延喜式』に「山田郡多奈波太神社」と記される格式の高い神社で、主祭神は、天之多奈波太姫命(天之棚機姫命)である。
「尾張名所図会」にも、「田幡村にあり、七夕のの森といひて、例祭七月七日、燈をかかげて諸人参詣す」とある。昔からの祭礼風景が七夕祭りとして現在も続いている。
社殿は、昭和二十年五月の空襲で焼失、昭和三十九年に現在の木造銅版葺きに復興再建された。
名古屋市教育委員会 原文はこちら。

由緒
戦国時代に織田信長による焼き討ちで社殿とともに伝書などを焼失したと伝わり、創建年代は不明だが、延喜式神名帳に山田郡多奈波太神社と記された。名古屋城築城の際、替地によって現在地に遷座したとも伝わる。江戸時代には名古屋東照宮の管理下に置かれ、寛永年間には尾張藩により新たに社殿が建てられた。旧暦七月七日の例祭には藩主が訪れ、一般民衆にも垣内参詣が許されたといい、当時の様子は「尾張名所図会」に描かれるなど、多くの記録が残る。

明治時代になって近代社格制度が実施されると八幡社として村社となり、大正11年(1922年)には指定村社となった。第二次世界大戦の際には神社の敷地に高射砲陣地が置かれ、「七夕の森」と呼ばれた鎮守の森の多くが切り払われた。名古屋城天守閣が失われた昭和20年(1945年)5月14日の名古屋大空襲で社殿を焼失。現在の社殿は昭和39年(1964年)に再建されたものである。

なお、この周辺は昭和50年代まで「七夕町」、それ以前は「田端村」と呼ばれており、当神社がこの地に置かれたことと関連付けて考える説もある。
ウィキペディア より

織田信長の焼き討ちにより記録を焼失・・・。しかし、延喜式神名帳に山田郡多奈波太神社と記され・・・。根拠は?
江戸末期国学の隆盛とともに、式内社の存在が人々に意識されるようになってから、山田郡多奈波太神社とされたのではないでしょうか。
もっとも、それでは明治の時何故「八幡社」としょうしたのか、・・・いまいち理解に苦しみます。

神社入口

境内

拝殿

団栗眼、剽軽な狛犬。拡大写真はこちら。
(明治39年(1906)4月建立)

拝殿内部

本殿


乳イチョウ