味鋺(あじま)神社

名古屋市北区楠味鋺2-736 (平成24年4月28日)

東経136度55分50.98秒、北緯35度12分55.61秒に鎮座。

この神社は、名鉄小牧線・味鋺駅の南西700m程の辺り、名古屋の住宅街に鎮座しております。参道入口のすぐ左手には嘗ての別当寺「味鏡山護国院」の山門が並び、神仏混交の名残が窺えます。

御祭神 宇麻志麻治命(可美真手命・味間見命)味饒田命

創立年月日は不詳なれど、第六十代醍醐天皇御代(901〜930)にまとめられた延喜式神名帳に、尾張の国春日部郡、味鋺神社と記載されている古社である。物部氏の祖となる宇麻志麻治命は、我が子、味饒田命と供に、物部一族を率いて皇城の守護にあたり大政に参与する。
その子孫が、美濃・尾張・三河地方に発展し、ことに尾張地方地方の勢力は大きく、一族の遺跡と称されるものも少なくない。
春日井市味美にある二子山古墳、古来この山上に、物部天神があり可美真手命を祀っていた。
現在は山上に白山神社が物部天神を合祀して建てられている。白山神社は、現楠味鋺五丁目にあった天神藪古墳より遷座されたと伝えられている。
この天神藪古墳より、刀剣・鉾・武器類が出土している。(現在京都博物館に保管)
この一帯は味鋺の原で、俗に百塚といわれた程多くの古墳があった。このことから物部氏族の蟠踞していた遺跡であると考えられる。
物部氏族が祖先を祀り、平和と繁栄を祈った、物部天神・味鋺神社は、おそらく尾張に於ける物部氏最初の氏神であったであろう。
味鋺の流鏑馬は寛治七年(1093)京都で競馬の神事が催されたのが始めである。神前より南堤防までの馬場を数回、馬に乗って、矢を天に向けて射る。此の矢を拾えば夏病をしないと、見物の人々が競って矢を拾う勇壮な神事であった。
最初は、豊作の年に限り行われていたが、非常に経費がかかるので、大豊作でないと行われなくなり第二次世界大戦が始まると、中止の状態となり今日に至る。
現在の社殿は平成四年に改築され現在に至る。
境内由緒書き より

平安時代初期の宮中の年中行事や制度などを記した『延喜式』に載る「春(かすが)<日>部郡味鋺神社」にあたるとされる格式の高い神社である。
江戸時代後期に編纂された『尾張名所図会』には、神社の図と供に流鏑馬などを行っていた祭の賑わいが詳しく記されている。平安時代から始まったと伝えられる流鏑馬神事は第二次世界大戦で途絶えたが、御輿渡御は今も祭の折に行われている。
宇摩志摩遅命のほか六神を祀ることから六所明神とも呼ばれた。
名古屋市教育委員会

創建年代は不明。祭神の宇麻志麻治命は物部氏の祖神とされ、延喜式神名帳にある尾張国春日郡味鋺神社であるとしている。江戸時代には六所明神とも呼ばれた。寛治7年(1093年)に競馬の神事が催されたと伝わり、かつては例祭で流鏑馬神事が行われていたが戦後になって絶えた。なお、流鏑馬は1955年(昭和30年)の名古屋市合併を記念して催され、1998年(平成10年)にも流鏑馬装束の再現が行われている。
また、隣接する護国院は天平年間(729年〜748年)に行基によって薬師寺として建立されたとされるが、味鋺神社は同寺の鎮守であったと伝わる。
周辺はその昔には百塚と呼ばれており、味鋺古墳群と呼ばれる約50基以上の古墳があったが開発によって滅失した。なお、かつて加藤清正によって稲置街道にかけられた清正橋と呼ばれる石橋が1978年(昭和53年)に神社の境内に移設されているが、古墳の石室材を転用した可能性も言われている。
ウィキペディア より

参道入口。左手は「味鏡山護国院」の山門。

鳥居

参道

蕃塀

舞殿

拝殿

拝殿前の浪速狛犬。拡大写真はこちら。
(明治36年(1903)12月吉日建立)

拝殿内部

本殿


津島社 州原社
秋葉社 斉宮社/稲荷社
山神社 天神社
金刀比羅社 神明社/日神社
熱田社

清正橋

嘗ての別当寺「味鏡山護国院」の山門