城山八幡宮

名古屋市千種区城山町2-88 (平成24年4月27日)

東経136度57分46.12秒、北緯35度09分51.55秒に鎮座。

この神社は、東山線・覚王山駅の東500m程の辺り、室町時代末期の末森城址に鎮座しております。境内地は一万坪もあり、ゆっくりと散策するのも良いかと思われます。

城山八幡宮略記
御祭神 誉田別命(応神天皇)・息長帯比賣命(神功皇后)・帯中津日子命(仲哀天皇)の三柱の神を主神として木花開耶媛命・大山祇神・菊理媛命・伊弉諾尊・伊弉冉尊の五柱の神を合祀申し上げている。
沿革
東宮は往古、末森城の麓に鎮座し五百年以上前から産土神・勝運守護の神として崇敬を集めてきたと伝えられており、昭和十一年に境内地であった現末森城址に遷座した。末森城を築いた織田信秀(信長の父)信行(信長の弟)を始め尾張藩主等、戦国・江戸時代を通じ武将の篤い崇敬を集め、現在も名古屋の東の守り神として「厄除開運・交通安全・勝運守護」の御神徳が信仰されている社である。
二重堀を廻らした約一万坪の境内地はその殆どが、史跡末森城と重なり、室町時代末期における平山城の城址として原型に近い姿を伝えている。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、回廊からなり、末社には山神社、神明社、津島社、豊玉稲荷社を祀っている。境内には堀を廻る散策路に沿って「茶室洗心軒」「末森城址碑」「昭和塾堂」「連理木」「殉国碑」等の見所がある。
境内由緒書き より

由緒
この地域一帯は、江戸時代以前は尾張国愛知郡末森村といわれていた。500年以上前より楠という字(現在の千種区春里町)に八幡社が鎮座していたが、織田信行が白山比盗_社を勧請して以来末森城址にあった白山社、ほか末森村内の浅間社、山神社、一ノ御前社を明治41年(1908年)に合祀し、改めて創建となった。
明治45年(1912年)、末森城跡地が八幡社の所有地となり、昭和11年(1936年)に現在地に遷座した。昭和31年(1956年)に現在の城山八幡宮に改称した。
ウィキペディア より

末森城概要
天文17年(1548年)、織田信秀が築城した。三河国松平氏や駿河国今川氏などの侵攻に備えてのもので、実弟織田信光が守る守山城と合わせて東方防御線を構成したものである。信秀は、城主に織田信行(信勝、織田信長の実弟)をあてていたが、自らが古渡城から移り、天文20年(1551年)にこの末森城で死去したとも伝わる。
弘治2年(1556年)、織田信勝は林秀貞、柴田勝家などとともに信長に叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れて和睦した。しかし翌弘治3年(1557年)、再び謀反を企てたのを柴田勝家が信長に内報し、信勝は清須城で謀殺された。
末森城は城主不在のまま放置され、いつしか廃城になった。城の西北山麓に信秀の霊廟があったが、現在は名古屋市千種区四谷通にある桃巌寺内で信勝とともに供養されている。
ウィキペディア より

参道入口

一の鳥居と社号標

空堀に架かる神橋と二の鳥居

空堀より見る神橋

参道

石段途中の浪速狛犬。拡大写真はこちら。
(大正4年(1915)12月建立)

境内入口に立つ三の鳥居

境内

神門

拝殿

拝殿前の岡崎型狛犬
(昭和11年(1936)7月建立)

本殿


山神社・神明社・津島社

明治にはユニークな狛犬が多数ありますが、戦後は何故岡崎一辺倒になったのか。拡大写真はこちら。
(明治34年(1901)建立)
豊玉稲荷社
大峯山行者堂 殉国之碑
忠魂碑 十山字錨

神楽殿

えんむすび連理木