蝮ヶ池八幡宮

名古屋市千種区向陽1-3-32 (平成27年1月4日)

東経136度57分02.79秒、北緯35度10分01.82秒に鎮座。

この神社は、JR中央本線・千種駅の東1.5km程の辺り、市内の住宅地に鎮座しております。

御祭神 第十五代應神天皇=俗名誉田別命又は大靹別命

由緒
千種区の西部は以前古井村と呼ばれ、水の乏しい台地で、その大部分は山林原野でした。江戸時代初期の慶長十五年(1610)名古屋城が築かれるとともに、その南方に広大な城下町が遣られました。城下町の人口が増加するとともに、古井村の原野に目をつけて、開墾を始める人たちが出てきました。これらの開墾地は名古屋新田と呼ばれ,北は大曽根、鍋屋上野から、南は瑞穂区の井戸田や大喜の村々にわたって散在していました。
年貢の取り立てなどを通じて、名古屋新田を支配していたのが、兼松源蔵と小塚源兵衛です。そのうち兼松家は代々源蔵を名乗り、名古屋新田の北部の支配を受け持っていました。名古屋新田の耕地は丘陵地のため、そのほとんどが畑でした。兼松家は鉄炮坂池(振甫町)を掘ったり、蝮ヶ池の堤をかさ上げしたりして、二十四ヘクタールほどの水田を開きました。そのため農民も増えてきたので、寛政元年(1789)宗右衛門正受の代に、古井村池ノ内(仲田二丁目)に移り住んで、直接農民を指導支配しました。
さて日本全国に数ある八幡杜の総本社は、九州大分県の宇佐八幡宮です。八幡宮は古来皇室や源氏の崇敬が篤く、後に各地に勧請されました。中でも京都府の石清水八幡宮と、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮は有名です。
蝮ヶ池八幡宮は、第百九代明正天皇の御代兼松源蔵が石清水八幡宮の分霊を勧請し、当初自邸に近い西八幡社の地に祭ったのがその始まりと伝えられます。後に現在地に社殿を造営し、名古屋新田の人たちの鎮守としました。
明治四十年(1907)村社に列格し、昭和十五年(1940)ごろ、境内を東へ拡張するなどの改修工事が行われました。しかし昭和二十年六月二十六日の空襲で社殿を焼失しました。昭和二十六年十月二十一日、氏子崇敬者の総意により神殿が落成し、盛大な遷座祭が行われました。昭和三十五年には拝殿、渡殿、神楽殿などが造営され、続いて「須佐之男杜」「洲原社」「秋葉社」の当宮境内末社々殿は、昭和四十九年伊勢神宮の御神木を御造営用材として御下賜され、昭和五十年四月十八日に完成鎮座されました。
今日、この貴重なる歴史的文化遺産を引き継いだ当神社(宗教法人)は、母体である氏子、崇敬者等が集いあい、祭を通し心豊かで潤いある町造りに勤しみ、参詣者の絶えない賑わいで社頭は隆盛の一途を辿っています。
参拝時の栞 より。

参道入口と一の鳥居。左手はPL名古屋中央協会。

二の鳥居

拝殿

拝殿内部

本殿


洲原社・須佐之男社・秋葉社

末社を護る狛犬。拡大写真はこちら。
(大正10年(1921)10月建立)

鎮霊社