阿豆良神社

一宮市あずら1-7-19 (平成24年4月28日)

東経136度49分36.77秒、北緯35度16分51.24秒に鎮座。

この神社は、名神高速・一宮ICの北西1km程の辺り、一宮市の住宅街に鎮座しております。街中の為か社地はさほど広いとは云えず、社殿や狛犬も新しいもののようにみえます。しかし地名になっており、由緒ある式内社となっております。

吾鬘に鎮座まします神で、郷社(式内)阿豆良神社と申すが本名であります。祭神は天みか津媛命で垂仁朝五十七年(紀元六八八)の創建で今年から一千九百四十二年前に当たる古社であります。熱田神宮、津島神社、内津神社よりも古く大県神社、国府宮尾張大国霊神社と殆ど同時代で一宮真清田神社だけが神武朝三十三年であるから古いのであります。尾張本国神名帳集説に「従一位阿豆良名神在稲置庄吾鬘村、釈日本紀尾張風土記中巻曰、丹羽郡吾鬘郷巻向珠城宮御宇天皇(垂仁)品津別皇子、生七歳而不語。 傍問郡下無能言之。 乃後皇后夢有神告曰、吾多具国之神名曰 阿麻彌加郡比女、吾未得祝、若為吾充祝人皇子能言、亦寿考。 帝卜人覓神者、日置部等祖建岡君卜食即遣覓神、時建岡君到美濃国花鹿山、攀賢木枝造縵、誓曰吾縵落処必有此神、去落縵於此間、乃識有神。 因竪社由社名里。 後人訛言阿豆良里。」右の由緒は諸書にありますが其の中最も簡結なものです。
これを意訳しますと「垂仁天皇に品津別皇子と云う皇子がありました。生まれおち唖で七歳になられても言葉が出ません。天皇は御心配の余り郡臣に治療の方法を御尋ねになりましたが、誰も明答を致しません。一夜皇后様の夢に「私は出雲の阿麻彌加都比女(天みか津媛)と申す神であるが、今迄誰も祀ってくれないが祠を建てて神に祭るなら、皇子の唖は立ち所に治り、天寿を全うして長生が出来よう。」と申して枕神は消えました。天皇は臣下に卜占はせて建岡君に祭神の事を御委せになりました。建岡の君は美濃国花鹿山(揖斐郡花長神社、現存)に登って山中の榊の枝で縵(ミズラ)(古代頭髪に挿すもので「カンザシ」に当たる)を作って天神に祈って「此の縵の落ちた所が神を祭る所である。」と申されて縵を遠く投げられられました。
縵は遠く南方に飛んで此の地に落ちました。そこで直ちに神殿の造営にかかって天みか津媛命をお祀りになりました。 「みずら」によって地名となり後世言葉がなまって「あづら」となりました。古来此の神社に祈願すると聾唖が治ると申すのも由緒から来たものであります。境内神社中に神宮司社と云うのがありますが、前に述べた建岡の君が祀ってあります。
境内由緒書き より

御祭神 天甕津媛命(阿麻彌加都比女とも記述されている)

式内社の尾張国丹羽郡「阿豆良神社」である。阿豆良とは縵から転じたといわれている。
創建時期は垂仁天皇57年(28年)とされており、尾張国でも古い神社とされている。
1564年(永禄7年)、戦乱のため焼失するが、1587年(天正15年)に再建される。
江戸時代は「吾蔓大明神」と称されていたが、1872年(明治5年)に阿豆良神社に改称し、郷社となる。
元の位置は現在地の北約200m付近という。別の説では、現在地の北約1kmにある馬見塚遺跡(縄文時代〜古墳時代の祭祀遺跡)ともいう。現在地に移転したのは1587年(天正15年)の再建時と推測される。
ウィキペディア より

角髪(みずら)とは日本の上古における貴族男性の髪型。中国の影響で成人が冠をかぶるようになった後は少年にのみ結われ、幕末頃まで一部で結われた。美豆良(みずら)、総角(あげまき)とも。古墳時代の男性埴輪などに見られる。分類として、「上げ角髪」と「下げ角髪(ようは、おさげ)」があり、一般人に認知度が高いのは前者であり、後者は貴人(身分の高い者)の髪型である(結い方の項目に記されているのも上げ角髪の結い方である)。
ウィキペディア より

由緒書きやウィキペディアの説明に若干矛盾があります。「縵」は「ミズラ」とは読まず意味も違うようです。

神社入口

参道

神門

蕃塀

拝殿

拝殿内部

本殿


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